パーフェクト保育 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

近年、保育施設での不適切保育が問題になっている。過剰なほどに。

不適切保育はたしかに許されることではないが、不適切保育の過剰な指摘は保育を3つに分ける。

すなわち、「不適切保育の連鎖」「放任保育」「自由保育」の3つである。

以下に、その考察を述べる。

 

1.不適切保育の連鎖

不適切保育を指摘し過ぎることで、子どもに関わることに対するリスクとストレスが増大する。

それにより、保育者のなり手がさらに減少し、人手不足による現場のストレスが増大する。

増大したストレスは職場や子どもへ向かい、結果として不適切保育へと繋がる。

 

2.放任保育

不適切保育を指摘し過ぎることで、保育者の義務である『子どもの発達を保証する』ための手段が制約される。

子どもと関わること自体がリスクであるため、子どもと距離を置き、子どもの怪我に繋がらないような不健康な環境が構築される。

 

3.自由保育

現代保育の主流と言われつつ、なかなか実践するのが困難な保育。

簡単に言えば、放任保育に高度な環境構成を加え、子どもが自然に発達していけるようにする保育。

できるかできないかは保育者の技量以上にその保育施設そのものの環境による。

 

言うまでも無く自由保育が最良の選択であるが、『ならそれでいいじゃん!』とならないのが現実。

なぜかと言えば理由は色々あるが、個人的に最大の理由だと感じるのが保育者の過干渉である。

保育者にはとにかく子どもの世話を焼くのが好きな人(あるいは猫可愛がりの人)が多い。これは、そもそも子どもと関わりたい人が(それ以外のメリットがほぼ皆無の)保育者になっているのだから当然である。

 

わたしの勤めている園では、保育者が積極的に子どもと関わって遊ぶことが推奨されている。子どもと一緒に遊ぶことそれ自体は問題ないが、その目的が子どもに言うことを聞いて貰うためであるのはいかがなものかと思う。リーダー保育者曰く、『片付けの時とか入室の時にいきなり「片付けしなさい」とか「部屋に入りなさい」とか言っても普段それしか言わない人の言うことを聞こうとは思わないでしょう? 普段一緒に遊んでくれる人だからこの人の言うことは聞こうかなって子どもたちも思うんだよ』とのこと。別にそれ自体を否定するつもりは毛頭無い。一緒に遊んでくれる人の方が、そうで無い人よりも好かれるだろうということも理解できる。しかし、この背景には、一斉保育ゆえの時間制限がある。園全体の動きは決まっており、これが乱れると他のクラスの動きや、職員全体の動きに影響を与えるのである。保育者には制限時間の中で子どもたちを動かすことが求められ、しかもそれを子どもたち自身が自分の意思で行うようにするよう求められるのである。一応、保育者の技量によってはできないわけでもない。しかし、素人に毛が生えた程度の保育者や才能のない保育者がそれをしようとすればどうなるのか。それは子育てを経験した方であれば嫌というほどご存じの筈である。しかも保育現場の場合、不適切保育というリスクが付き纏うのだから恐ろしい。

 

繰り返しになるが、保育者にはとにかく子どもの世話を焼くのが好きな人が多い。子どもたちのためにあれもしてあげたい!これもしてあげたい!という思いで保育者になるのだから当然と言えば当然である。そんな保育者であっても、条件さえそろえば即座に不適切保育への道が開く。それが、保育の恐ろしさである。このことを踏まえて、不適切保育を回避するための第4の保育を提示して、この記事を終了する。

 

4.パーフェクト保育

子どもをコントロールすることに長けたパーフェクト保育者たちによって行われる保育。

その保育者たちは、子どもたちを意図的に主体的な活動ができるように導くことができる。

どんな行事であっても子どもたちは自分から『やりたい!』と言い、参加しない子はいない。

発達に問題を抱えている子も生き生きと活動に参加し、部屋を飛び出したり、高いところから飛び降りたりしない。

保育者に言われれば、子どもたちは嫌いな食べ物も頑張って食べて達成感を得る。また、年齢に応じて推奨されている量を全ての子が食べる。

排泄の自立も自然に行われる。紙おむつからおしっこが漏れる前に子どもたちが自分からトイレに行く意思を見せる。

保育者、主任保育者、施設責任者に至るまで風通しが良く、保育現場の不満を愚痴だけで発散することはない。