☆ 15,6年前,あちこちに色々な掲示板があり,さまざまな話題が話されていた。まだ大きな掲示板はヤフー!とか「あめぞう」くらいしか無かった。個人が運営する掲示板が林立し始め,プロバイダやインターネット企業が掲示板サービスに一斉に走り出した頃だ。
☆ 掲示板の前身はパソコン通信の「フォーラム」だった。だから掲示板をやっていた人のかなりの部分はパソコン通信の各フォーラムの運営方針をプロトコルにしていた。それは物言わぬリテラシーだったと言ってよかった。
☆ 時は過ぎ,IT革命が本当に「革命」であったことは,北アフリカで本物の「革命」が起こった事実からも証明された。インターネットによる「自己表現」と「情報」をキーとした「人と人との出会いと繋がり」は,ホームページ,ブログ,ツイート,ユーチューブ,ソーシャル・ネットワーク・システムとドッグイヤーの名に恥じぬ進化(深化)を進めた。言い換えれば「大衆化」が起こっていた。
☆ それと同時にパソコン通信時代の「プロトコル」は威勢の良い「おまいら」連中に蹴散らされていった。今では個人のツイートすら,公人としての制約を受ける羽目になった。つまり世界中が揚げ足取りの「リヴァイアサン」と化している。トマス・ホッブス流に言えば「万人対万人の闘争」ということになるのか。。。
☆ 議論は相手の顔を見て行うものだ。顔色を窺うというのであれば,比喩ではなく事実として表情やそこに潜む感情を測りながら(念のために申し添えるが,相手が考えても無いことを「忖度(そんたく)」するのではない)議論をすべきなのだ。一方的な感情をぶちまけてそれで良しとする「言い捨てツイート」は,どこぞやの首長の得意技のようだが,それでは議論のプロトコルに反してしまう(つまり文字通り「話(=議論)にならない」)。しかし,そういう事(リテラシー)を誰も教えていないから,折角出来た空間がいつの間にやら「リヴァイアサン」と化してしまうのである。
☆ 「距離の離れたところ」からの意見を見た時,まず,このように感じるべきである。「この意見の主が見ている空は,自分のそれとは違う」。どちらが正しいということではない。まず相手との「差異」を認める所からでないと議論はできない。
☆ さらに言えば,その掲示板なり何なりが,そもそも「議論の場」に相応しいものなのかを感じる「感覚」もまた,求められているのである。
※某ポイント関連サイトの掲示板上で繰り広げられている不毛な「闘争」を見て。