今、中国の気球がアメリカに飛来して話題になっていますが、戦時中、旧日本軍がアメリカ本土に向けて放球されました。目的は、アメリカ本土を攻撃、内部攪乱を図るのが目的で、起死回生策といったものではありません。日本の晩秋から冬にかけて、上空8、000メートルから12、000メートルの高度に強烈な西風が吹きます。偏西風は時速200キロから300キロの猛スピードで太平洋を横断、アメリカに向かって行きます。この偏西風を利用して、風船爆弾をアメリカ本土に放流する計画でありました。
そして、太平洋戦争末期、昭和19年11月から20年4月初めにかけ、「ふ号」作戦が展開されました。「ふ号」作戦の「ふ」とは、開発された研究兵器は、その順番に従って「い」号兵器、「ろ」号兵器と呼ばれ、この攻撃用気球は、いろは32番目の「ふ」号兵器と称されたが、後の風船爆弾も「ふ」号兵器であるが、偶然にも風船の「ふ」と、いろは順の「ふ」が一致したのである。
「ふ」号作戦は、急に考えついたのではなく、軍が本格的にアメリカ本土攻撃に着手したのは、昭和17年4月18日のドーリットル空襲がきっかけでした。その報復手段に風船爆弾が浮上したのであります。開発は東京郊外の登戸にある第九陸軍技術研究所いわゆる登戸研究所(現明治大学生田キャンパス)で密かに進められていました。
発射基地を建設
アメリカ本土を攻撃任務とする攻撃部隊は、千葉市作草部の気球連隊を改編して充当され、同連隊の連隊長井上茂大佐を指揮官に新部隊を編成しました。なお、気球連隊は特殊な作戦実施部隊であるため、陸軍参謀総長梅津美治郎大将の隷下に入れました。
放球基地は、福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮の3ヶ所に建設され、気球連隊の各部隊が配備されました。
明治大学生田キャンパスの平和教育登戸研究所資料館の第二展示してある風船爆弾の模型
改編された気球連隊の編成は次の通りであります。
連隊本部(茨城県大津)
・本部式機関
・通信隊
・気象隊
・連隊材料廠
第一大隊(茨城県大津)
・三個中隊
・一段列中隊の材料廠
第二大隊(千葉県一宮)
・二個中隊
・一段列中隊の材料廠
第三大隊(福島県勿来)
・二個中隊
・一段列の材料廠
試射隊
標定対
標定本部と第二標定所(宮城県岩沼)
第一標定所(青森県古間木)
第三標定所(一宮)
各大隊の基地建設には、民間の勤労奉仕隊員が動員されました。
一宮では、一宮駅から引き込み線が敷設され、多くの工事関係者が入り込んできました。町の人たちも多数が交代で勤労奉仕して、工事は瞬く間に完成しました。(幻の本土決戦・房総半島の防衛)
女学生も動員
風船爆弾の開発は、登戸研究所第一科を中心に行われました。風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作成した気球に水素ガスを注入し、太平洋を偏西風に乗せておよそ9、000キロもの距離を飛行させ、気球に吊った爆弾をアメリカへ運ぶという作戦でした。登戸研究所第一科を中心に、陸軍内をはじめとして官民を超えた様々なセクションの協力を仰いで行われました。
気球紙の生産には和紙産地の生産家の人々が、その貼り合わせには日本各地の女学生をはじめとした様々な人々が動員されました。これらの作業は、日本全国の造兵廠や学校の校舎、民間の工場などで行われました。
基地への住民の立ち入りが禁止
大津には連隊本部が設置され、三個中隊が従事していました。そのため、放流基地は約132ヘクタールにおよび、基地への住民の立ち入りが禁止され、大津側と平潟側の出入口には歩哨が立哨していました。また、同基地付近を走る常磐線はいわき・水戸間で車窓を鎧戸で覆い、情報の漏洩を防いだのです。
茨城県北茨城市大津町に残る風船爆弾放球台跡
同基地には放球台18基、水素ボンベ集積所、兵舎などが設置されました。
茨城県北茨城市の五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に風船爆弾の放球台跡が残っていますが、これが風船爆弾の放球台だと知る人はあまりいません。
11月7日から放球開始
風船爆弾は昭和19年11月7日から翌年4月までに約9、300個の風船爆弾が放球されました。実は明治節にちなんで、同年11月3日に最初の放球が予定でしたが、大津基地で風船爆弾の誤爆事故が発声し、3人の兵士が犠牲になったため、これにより放球は11月7日まで延期されました。
アメリカに到達した風船爆弾は、9、300個のうちの約360個が北アメリカに到達したといわれてます。
風船爆弾による被害・アメリカの反応
アメリカでの風船爆弾による被害は、翌年5月にオレゴン州で起きました。ピクニック中の子どもと大人が不時着した風船爆弾に触れて6名が死亡しました。また、原子爆弾のプラトニニウム製造工場の送電線に引っかかり短い停電を引き起こしましたが、これが原爆の製造をを3日間遅らせました。それと風船爆弾に取り付けてあった焼夷弾が小規模の山火事を起こしましたが、冬の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、効果はありませんでした。
アメリカでは、試験放球のうちから風船爆弾の飛来を察知し、海軍研究所を中心として飛来数や場所などを集計して対策にあたりました。西海岸の広範囲に警戒網が張られ、国内の混乱を避けるため、新聞・ラジオに対して報道管制が敷かれました。
解体された気球連隊の倉庫
最後に「ふ」号作戦にかかわった気球連隊の倉庫について述べます。
千葉市作草部にあった気球連隊の倉庫は、戦後になって川光倉庫が倉庫として活用してました。内部を4階に区切り、コメなどを保管してました。
戦後、川光倉庫が倉庫として活用していた気球連隊の倉庫。残念ながら今は解体されてしまった。
だが、2019年の台風により天井が破損、他の部分も老朽化が目立つようになり、2020より解体が始まりました。
千葉市では最大の戦争遺跡だっただけに、住民も惜しんでいました。


