太平洋戦争中、千葉県内には陸海軍の飛行場が15ヶ所あった。陸軍関係が10、海軍関係が5ヶ所あり、この中には、滑空場や航空機乗員養成所も含まれていた。このうち、印旛飛行場が地方航空機乗員養成所であった。

印旛地方航空機乗員養成所の所在地は現在の印西市で、当時は印旛郡船穂村草深という地名であった。1938(昭和13)年、土地の買収が始まり、山林の伐採が行われた。前年に日中戦争が勃発したため、突貫工事で進められた。1942(昭和17)年6月6日、飛行場は完成した。だが、前日のミッドウェー海戦で敗北、戦局は悪化の一途を辿り、帝都の守りを固める必要上、陸軍戦闘機の配備も噂になり始めた。

 

戦闘機用の滑走路を拡張

1943(昭和18)年10月頃、印旛飛行場の拡張が開始された。戦闘機の離陸には1、800メートルの滑走路が必要であったからだ。翌44年に入ると、工事は急ピッチで進み、同年9月頃までには工事もほぼ終わった。11月には、陸軍飛行第23戦隊などが進出、印旛飛行場は陸軍の飛行場となった。その間、一式戦闘機隼、二式戦闘機鐘馗が配備された。それと同時に、空襲に備えて誘導路と掩体壕、退避壕も拡充された。

一方、印旛地方航空機乗員養成所は次第に有名無実の存在になり、生徒は飛行場の整備、工事、草刈りなどにかりだされ、生徒の一部は米子や新潟に転出、群馬県伊香保への疎開も行われた。

 

生徒舎に直撃弾

1945(昭和20)年7月4日昼過ぎ、米軍のPー51戦闘機約10機が飛行場を銃爆撃、一発のロケット弾が生徒舎に命中、7名が即死した、5名が重軽傷を負った。翌8月9日には、飛行場から発進した特攻機10数機のうち、3機が故障のため山中に墜落、炎上した。

 

戦後はニュータウンに

戦後は、入植者による開発が行われ、その大半が農地となったが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、1949(昭和24)年から1985(昭和60)年までは、印旛少年院として利用されていた。

印旛飛行場の跡地は、その後のニュータウン建設に伴い、ほとんど跡形もない。ここに飛行場があったことは、わずかに公園の中にある石碑によって示されている。

 

 

西の原公園に建立された平和の碑。

碑には逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡、陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡、通称草深飛行第跡と記されている。

碑の裏面には碑文もある。

 

 

碑文の隣には説明板も設置されてありました。

 

 

無蓋掩体壕は、1982(昭和57)年の調査では36基が確認されるなど、多くの掩体壕が残っていたが、今はニュータウン建設に伴い、残っていたのは数基のみとなった。

印西市では、残った掩体壕の数基を保存すべく、関係団体と協議していたが、2016(平成28)年9月23日に東の原3丁目にある掩体壕が市の指定記念物に指定され、保存が決まった。

 

 

 

 

東の原3丁目の造谷川防災貯水池の西側に保存されている無蓋掩体壕。

大きさは幅約30メートル、高さ3メートルほどで、隼や鐘馗などの戦闘機ならほぼ1機格納できる。

 

 

掩体壕の説明板も設置されています。

 

 

平和の碑は西の原公園

千葉県印西市西の原1丁目4

 

掩体壕は東の原公園

千葉県印西市東の原3丁目105