野原に行ってお花を摘んで自分のまわりに置いて、「キレイでしょう」と自慢する子が居る。お花を一人で全部摘んでしまう。

皆は不満になる。

先生が「一人で得意になっていて、皆のことが気にならない?」と聞くと、「ぜんぜん」と言う。

せっかく綺麗な花を楽しみたいのに、その子がちぎってしまったから皆は花を楽しめない。

皆は不愉快である。

しかしその子は一人でいい気になって「キレイでしょう」と自慢する。


この子の様に人に嫌われることをしながら、人から尊敬されようとしている人がいる。

これで気がつけばいいのに、突っ張って「悔しかったら自分だって取ればいいじゃない」と言う。

そこでますます嫌われる。
先回の「非言語的メッセージを見る(6)」に書いた子をどう解釈したらいいのか。

先ず、言うことを聴く子とやさしい子とは違うと言うことが分かっていない。

この子は目的もなく従順であったのだろう。

礼儀正しさは憎しみが外に表れるのを防ぐため。

礼儀正しさの裏に憎しみが隠されていることに近所の人は気がつかない。

「こんにちは」と言う挨拶は触れ合いの言葉ではなかったのだろう。

コミュニケーションとしての挨拶ではなく、気に入ってもらうための挨拶だったのだろう。

同じ素直でも、満たされて素直になるのと、怖くて言うことを聞く素直な「良い子」になるのとでは全く違う。

心を見ないと、満足しているから素直になる子と、怖いから言うことを聞く子の二人を同じに見てしまう。

「あの人はどういう人間か」と言う時に最も大切になってくるのが、優しさである。

しかし優しさとは何かについて新聞雑誌などではあまり真剣な議論がされていない。

いつの新聞でも良いが、経済的に活気のあるバブル期の新聞を見てみたい。

中学二年生が両親と祖母を刺し殺した事件が載っている。

少年は早朝両親を包丁でめった切りにした。何を使うかに心が表れる。包丁を使ったと言うことは憎しみである。

例によって「『礼儀正しい子』と近所では評判」と書かれる。おきまりの記事である。 

「外目には家族とも仲が良く、父親ともキャッチボールをして遊んでいたこともしばしば。」。
「近所の主婦は『あんなに礼儀正しい子が、、。私が通りかかると『こんにちは』と声をかけてくれるような子だったのに」(註;いずれも1988/7/9毎日新聞)。

新聞社はどの新聞社もこのような書き方にしなければ記事ではないと思っているのだろうか。

記事は何十年も同じパターン。