尊敬されようと思って「どうだ、凄いだろう」と虚勢を張って嫌われる。

「シャクヤクは、バラの花よりも大きいというので、いばりかえっていました。でも、大きければそれでいいというわけのものではありませんね。」(註;前掲書、50頁)

「シャクヤクは、バラの花よりも大きいというので、いばりかえっていました。」と言うのが虚栄心である。

「でも、大きければそれでいいというわけのものではありません」と言うことが分かっていない。

シャクヤクはバラの花より大きくなることが愛されることだと思っている。

何よりもこの柵に囲まれた別荘の庭の花達はお互いに競い合っている。

お互いの美しさを認めていない。

広い別荘は不幸せ、大きく美しい花は不幸せ。

競っていないのは道ばたのヒナギクだけである。

内面が充実している人は競わない。
ヒナギクの優しさが雲雀に安心感を与える。

優しさは安心感を与えるから、優しい人のまわりには人があつまる。

ところが別荘の庭の中の花は偉そうにして気取っている。

これが人間で言えば虚勢である。

好かれようとして頑張るのだが、嫌われるタイプである。

道端のヒナギクと違って別荘の木の柵の中の庭で咲いている花はどうだろうか。

「お庭のなかには、えらそうにきどった花が、たくさん咲いていました。かおりのすくないものほど、つんとすましているのです。」(註;前掲書、50頁)

この香りの少ない花ほどつんとすましているというのが、人間で言えば虚栄心が強くて嫌われる性格である。
「にもかかわらず」と思えるのは内面が充実しているからである。

自己実現している人は基礎に肯定的な感情がある。だから「にもかかわらず」と思える。

人が優しくなるためにはどうしても自己実現をして、情緒的に成熟する必要がある。

ヒナギクは今の自分がいい。今自分がここにいられるから雲雀の声を聞ける。おそらくそう考えているのである。

今自分がここにいられることが幸せなのである。

雲雀がさえずるのを聞けると「思う」ことで幸せになろうとして努力しているのではない。そう思うことで幸せになろうと努力しているのではない。

自分が今ここにいるヒナギクであることで幸せなのである。

このヒナギクの心が優しいのである。

だからヒナギクは雲雀から好かれる。