英名 CLOVE
生薬系香料です。
チョウジノキ(フトモモ科)の花蕾を乾燥したものでピリっと辛味調の匂い(スパイシーノート)の代表的香料です。
産地はザンジバル、マダガスカル、インドネシアなどで東洋の香料として最も代表的
かつては手に入りにくく、非常に貴重品とされていました。
香料以外の用途としては料理のスパイスとして使用されています。
正倉院の御物の中にも見られ、古くから日本に入ってきています。
芳香性健胃薬や鎮痛剤(歯痛止め)として広く使われているようです

英名 CLOVE
生薬系香料です。
チョウジノキ(フトモモ科)の花蕾を乾燥したものでピリっと辛味調の匂い(スパイシーノート)の代表的香料です。
産地はザンジバル、マダガスカル、インドネシアなどで東洋の香料として最も代表的
かつては手に入りにくく、非常に貴重品とされていました。
香料以外の用途としては料理のスパイスとして使用されています。
正倉院の御物の中にも見られ、古くから日本に入ってきています。
近世窯芸史の中でひときわ特筆すべきは、江戸初期の西肥前有田郷で、日本ではじめての白磁器・青磁器・染付磁器(青花)群が創成されたことでしょう?!
中世末に舶載された中国磁器、李朝磁器への執着は、ついに日本での磁器創成という画期的な技術革新を可能としました。
西肥前の平戸港には数多くの中国明朝の染付磁器、彩絵(色絵)磁器が舶載され、大きな刺激を受け、日本での磁器創成が待ち望まれた。その期待に答えたのが肥前における磁器の創成です。
肥前磁器創成は従来いわれてきた天狗谷窯の李朝系の渡来人・李参平とその一団が泉山陶石を用いて初めて実現した元和2(1616)年説がほぼ定説化していましたが、その後の学術調査で10年遡る慶長10(1605)年前後という話もある。さらに文献から見てみると李参平開窯以前に家永正右衛門(豊臣秀吉より朱印状を貰った家永彦三郎の孫)や唐人によって〔南京焼〕が焼成された旧記もあります。
「泉山の白磁鉱」
日本磁器の創成を遂げた西肥前の有田郷とその周辺ではすでに古唐津系の陶器を焼成していたので、すぐに磁器窯に転向し“陶器と磁器の接点”という窯業技術の革新期を迎えたらしい。
磁器創業期の当初は李朝系の染付磁器での倣製の域を出ず、製品は半球状の碗類や扁平の皿類で高台の立ち上がりが高く、わずかに瓶類や小壺などが造られていたという。
「古伊万里 桐絵皿」
京都ではじめて造られたやきものは、佗茶という風流の場で用いるための道具、すなわち純然とした茶陶でした。そして茶の湯があれほど盛んになり、それまでの京独自の雅とはまた異なった文化が起こったのは、そこに千利休と長次郎という工人がいたからではないだろうか?
だが必ずしも京の都でそのような茶の湯の文化がさかんになる要因があったわけではない! それまでは室町時代後期に従来から隆盛していた備前・信楽あるいは美濃の窯で堺や京都・奈良の町衆茶人の需要に応じて新しい茶陶が焼かれ、十分に供給能力をもっていたので、京都で茶陶を造らねばならない必然性はそれほどなかったのである。
しかし時代の風潮や長次郎という陶工の作陶法が大きな窯を必要としない内窯焼造であったことと、手捏ねによって成形するという特異性が、千利休とあいまみえて、利休の直接的な指導により利休が実践しつつあった「草の小座敷」における茶の湯のための茶碗を造るべく、聚楽第の近辺で長次郎焼が始まる。
ちなみに長次郎の他にも同じ傾向の内窯焼成による押小路焼も行われていたらしいが、押小路焼の実体はまったく不祥で、どちらが早かったか、またどのようなかかわりをもっていたかは判らない。
長次郎の場合は千利休好みの茶碗を焼いたことによって脚光を浴びたのだろう。。。