京都ではじめて造られたやきものは、佗茶という風流の場で用いるための道具、すなわち純然とした茶陶でした。そして茶の湯があれほど盛んになり、それまでの京独自の雅とはまた異なった文化が起こったのは、そこに千利休と長次郎という工人がいたからではないだろうか?
だが必ずしも京の都でそのような茶の湯の文化がさかんになる要因があったわけではない! それまでは室町時代後期に従来から隆盛していた備前・信楽あるいは美濃の窯で堺や京都・奈良の町衆茶人の需要に応じて新しい茶陶が焼かれ、十分に供給能力をもっていたので、京都で茶陶を造らねばならない必然性はそれほどなかったのである。
しかし時代の風潮や長次郎という陶工の作陶法が大きな窯を必要としない内窯焼造であったことと、手捏ねによって成形するという特異性が、千利休とあいまみえて、利休の直接的な指導により利休が実践しつつあった「草の小座敷」における茶の湯のための茶碗を造るべく、聚楽第の近辺で長次郎焼が始まる。
ちなみに長次郎の他にも同じ傾向の内窯焼成による押小路焼も行われていたらしいが、押小路焼の実体はまったく不祥で、どちらが早かったか、またどのようなかかわりをもっていたかは判らない。
長次郎の場合は千利休好みの茶碗を焼いたことによって脚光を浴びたのだろう。。。