最期に食べるのはやはりTKG? | dvconのブログ

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世界が終わるとき何をしていたいのか?

なにやらキナ臭い世界情勢を見ていると、いつ飛び火して最後の日が来てもおかしくないなんて考えてしまう。

最後が分かってしまうと暴れまわるか諦めるか、これで最後ならば美味しいものを食べ続けるのもいいかも。最近は食べ物ネタが多いなぁ。

核戦争後、人類の大半が死滅し滅びた北半球に続き、残った南半球も間もなく放射能に汚染されるのが目前となった時、近づく終わりの日を待ちながら、最後の日々を穏やかに迎えようとするオーストラリアに残った人々の姿を描いたのが「渚にて」だった。

 

反戦メッセージ映画として捉えるにはリアルさに欠け、主人公グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーや、町の人々はヨット遊びに興じたり釣りをしながら陽気に歌ったり騒いだりしている。

ヤケッパチになった連中が無茶な運転で自ら死を選ぶ自動車レースで、素人のフレッド・アステアが優勝してしまうシーンに自暴自棄が表現されている程度だ。

 

悲劇がベースになっているにしては、あまりに楽天的かもしれないが、残された時間の使い方として楽しみに興じるのは、人間のひとつの理想としての姿を描いているといえなくもないだろう。

日本映画の「世界大戦争」も、第三次世界大戦による世界の滅亡を描いているが、こちらも出演者は諦めの境地でパニックも起こさず死を迎える。

「渚にて」が最後の日々を楽しむ人々の描写があったのに比べ、「世界大戦争」は妙に抹香臭い雰囲気が漂うものの、映画は円谷英二演出による核爆発特撮シーンのスペクタクルが売り物のようだった。

 

制作年代は「渚にて」が1959年「世界大戦争」が1961年と、かなり近く、米ソ冷戦構造に緊迫感が漂っていたのは確かなのだった。世界が身近に迫る核戦争に最も戦慄したキューバ危機は1962年だった。

 

どちらの作品もなんでそんなに落ち着いていられるのだろう、確かにジタバタしても確実に迫る死を食い止めることは出来ない。やはり現実となったら警察機構は崩壊するだろうしパニックを起こした人間は暴れまわるのだろうが、映画は静かな反戦ムードを漂わせていく。

 

初めに戻って、世界が終わると分かったら食べ物はどうやって手に入れるのだろうか。通貨に意味は無くなり…やはり自給自足が勝ち組となるのだろう、ほんの数日の勝ち組だろうが。

下手にわずかな人間が生き延びたとしたら、世界はマッドマックス化してしまうのだろうな。