デイライトのメモ帳 -4ページ目

幻の看板

面白い記事を見つけました。
今大騒ぎになっている
あれの歴史についてです。
……………
「尚武館」「武育館」「相撲館」
1909(明治42)年、
東京・両国に完成した
初の相撲常設館の命名は、
これら候補をめぐって
開場の4日前まで紛糾したそうです。
「相撲には勝負があるのだから、
今さらショウブ(尚武)館
ということはない」など
という協議を経て、
結局、
初興行披露状の文中の
「相撲は国技」の言葉から
「国技館」と決まったとか。
この披露状を書いたのは
相撲好きの作家:
江見水蔭(えみ・すいいん)という方で、
古代の宮中の
相撲節会(すまいのせちえ)
を引き合いに
相撲を「国技」と位置づけた
ということだそうです。
開館委員長の
板垣退助(百円札)は
「尚武館」を推していたので、
「いいにくいむつかしい名」と
命名に不満だったそうですが、
いかんせん開場ぎりぎり
の決定だったので…。
しかしこの名前は
世間一般に受けがよく、
またたくまに
この名前:「国技館」が
知られるようになり、
と同時に
「相撲は日本の国技」
という認識が
広まっていったという
ことでございます。
振り返れば、
ほんのこの100年、
相撲界が自ら名乗り出て、
国民がそれを受け入れることで
「国技」とされてきた
大相撲なんだそうです。……………

まさに、
日本が近代国家として、
日清・日露の
二度の戦争に勝利して
意気盛んな時代に、
そのタイミングと
みごとに同調するかのように、
国技館と国技は
国民の間に
ほとんど批判らしき批判もないまま
浸透していったという。
ちなみに、
「国技」とは
ある辞書によると
「その国特有の技芸。
一国の代表的な競技。
日本の相撲など。」
と記されているそうですが、

「国技」を定めた「法律」
というものもなく、
しかも相撲を
「文部科学省」などの
「国家機関」によって認定され、
特別の地位や待遇を
与えられている
わけでもないそうです…。
あくまでも「認識」のみ
の世界だそうです。

つまり
「相撲:国技」とは、
歌舞伎などと同じく、
自分たちの持っている
特殊な技術や
伝統的な表現などで、
お金を払っている
観客を楽しませることとか…。
なので、
大相撲では、
試合ではなく、
「取り組み」となるそうです。

色々書きましたが、
「国技」という
看板の下で行われる物、
わたくしは、
幻のように思えても、
諸外国に誇りたいです。
相撲の
土俵外の「取り組み」に
目がいってしまっています。

いざよい(十六夜)に食う

6月16日は、
「和菓子の日」なんだそうです。
全国和菓子協会が
美しい日本の四季と歴史の中で
育まれてきた食文化
「和菓子」の素晴しさを
後世に伝え残すために、
1979年に
制定したんだそうです。
では6月16日とは?

これは、
平安中期に疫病が
蔓延したんだそうで、
当時の仁明天皇は
年号を嘉祥と改め、
その元年(848年)の
6月16日に、
16個の菓子や餅を神前に供えて、
疾病よけと健康招福を
祈ったとか…。

「嘉祥」とは、
「めでたいしるし」という
意味でございます。
「嘉祥」と「菓子」と
語呂も似てますし…
菓子はおめでたい物の
象徴なのかもしれません。

また、
室町時代には、
旧暦ですが6月16日、
「嘉祥」という行事が、
あったとか。
この日は、
弓で遊び負けた者は、
中国の「嘉定通宝」という
貨幣16枚で食物を
購入し、
勝者に供したそうです。
よく武家や宮中で
行われていたそうなんですが、
「嘉」と「通」が
「勝つ」に通じることから、
武家に尊ばれたようです。

そして、
江戸時代でも、
大切な祭りと数えられ、
主君が家臣に菓子を賜る嘉祥頂戴や、
町方の嘉祥喰
といった行事があった
ということで
ございます。
ちなみに
嘉祥喰とは、
16文で菓子を買って
笑わずに食べること。
あるいは
米1升6合と菓子を
交換して食べる
ということだそうです。
6月16日に
厄除け・招福を願って
菓子を食う
「嘉祥菓子」の風習は、
さまざまに形を変えながら、
平安期から
中世・近世まで
年中行事として
行われてきたことが
多くの古書に
記されているそうです。
この脈々たるものを
現代に…。
それが、
「和菓子の日」だとか…。
ですが、
「16」という数字は、
どっからきたのでしょうね…。
今だスッキリしないんです。

あらゆる方角
十六方の神様に
お祈りしたからでしょうか…?

スッキリしない時は、
ほのかな甘さの
ぼた餅でも
食べて寝るとしますか。

十六夜(いざよい)に
和菓子を食べて
また太る

ダークホース

米国第11代大統領ジェームス・ポークは
弁護士から下院議員、
テネシー州知事を経て、
1845年から大統領となりました。

大統領選に指名されたときのポークは、
ほとんど無名
ダークホースだったとか。
今でもそう思いますが…。
「衆目の的である大統領候補というものは求めるべきものではないし断るべきものでもない。私はそれを求めたことがない。また、指名が支持者の賛成投票によって与えられたものであるなら、私はそれを自由に断ることもできない。」
とこたえたとか。
回りくどい感じがしますが、
気迫がすごそうです。
知名度のないまま大統領戦に入ったのですが、
相手の党からは「ジェームズ・K・ポークとは誰?」と攻撃されたといいます。

結局、
ポークの対外政策が民衆に受け入れられたのか
僅差ですが選挙に勝ったそうです。

一期のみを務めるという決心の元に
ポークは、
テキサス共和国の合併、
イギリスとのオレゴン境界論争の解決、
独立した財務システムの再建、
メキシコからカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ、ユタ、コロラドの一部分およびワイオミングの領域の獲得
を成し遂げたということです。
アメリカ大統領というポストは、
ワシントンという国王の代わりになれる
適任者がいたから創始されたと言われるそうですが、
ワシントンは別格として、
ポークは無名ですが、
始めに目標を正しく設定し、
一期4年を猛烈な仕事ぶりで
献身的にやりとげた人物であったそうです。

一説には
ポークが大統領にならなかったら、
黒船は日本に行かなかったとか…。

人によっては彼の業績は、リンカーンと並んで高い評価をもっと得ていいとかとも…。

ポークは「大統領には、私用の時間は許されない」という考えの持ち主で
彼は4年の在任中、
37日しか休暇を取らなかったとか、
首府を離れたのは、
たったの6週間だったとか
といわれています。
精力的であったポークも53歳でホワイトハウスを去った時は疲れ果てていたそうです。
過労が彼の健康に悪影響を及ぼしていたようです。
彼は退任から3か月後の、
1849年6月15日
テネシー州ナッシュビルの新居「ポーク・プレイス」で死去したとのことです。

ダークホースと
言われたポーク。

ダークホースとは、
競馬で大多数の人が
入賞予想から外している馬のことだとか。
転じて、
意外な結果をもたらす人を
指したりするとか。

意外でもなんでもなく、
しっかりした目標を
一生懸命にやりとげた
第11代大統領は、
ポークはポークで
ホースではなかったのです。