あかつきブログ[まずは自分と向き合うことから]

あかつきブログ[まずは自分と向き合うことから]

心を扱う分野を知り、
自分と向き合うことの大切さを知って人生が激変!
思考、心、体。
どこかに偏りすぎると、他が悲鳴をあげます。
問題も、困りごとも、
悲鳴が形を変えて起きているのかもしれません。



続きです!


じゃあ、どうするのか。


話せる人がいなければ無理だし、

話せる人がいても、頻繁には難しい。

そう、本質として、

「出すことを禁止している」

が、まずはひとつの問題。

その一歩奥には、

「出したくなるものを抱えている」

があって、

「なぜ、それが生まれたのか」

という問題提示がある。

すると、どうしても避けられないのは、



【自分と向き合うこと】



つまり、

・自分の気持ちを聞いてあげなかったから

・自分の気持ちを軽視または無視したから

となる。

けれどそれは、

必ずしも実現させなければならないことでもない。

私はこう思った、ということを

しっかり見てあげるだけで良かったりします。

少なくとも、溜まり続けることは避けられる。

私の中にいる私にとって、

1番しんどいのは、

・思ったことを実現してもらえなかった

ではなく、

・思ったことについて、今は無理だと言われた

でもなく、

・まるでそこに存在しないかのように、無視される

だったりします。

こう思ったのだから、

そう思ったのねと、

観察というか、一旦でも目を向けて欲しいのです。

愚痴や弱音を吐いてはいけない。


そう思っている人が、またまだ多い気がするのです。

常に、とか、

頻繁に、とか、

そういうレベルで出しているなら、

少々問題あるけれど。

愚痴とか弱音とかを禁止しているなら、

それはそれで大いに問題あるのです。

「口にしてはいけないよね」と思っているなら、

「口に出したいことがある」の裏返し。

消化不良が溜まっているなら、

出してしまわなければ、

溜まる一方だったりします。

いつの間にやら気にならなくなる。

そんなこともあります。

けれど、

解消したのか、

発散したのか、

あるいは、

麻痺してしまったのか、

封印してしまったのか。

自分以外の誰にもわからず、

麻痺したのなら、自分でもわからない。

そうならないように、

ちょこちょこと、小出しにしていかないとね。

目の前が暗いと、


周囲が暗いと、

不安になりやすかったり、

考え方がネガティブに寄ってしまう。

それは明るい世界を知っているから。

陰と陽。

どちらも大切で、

どちらも在るからこそ。

偏るのは当たり前。

一方向だけに偏り続けるから、

不具合が起きる。

ならば真ん中がベストで、

それは一般的に中庸という言葉で説明される。

けれど、

中庸というポジションは無いように思う。

居続けられる[中庸という席]は無くて、

偏る時に、ふと立ち寄る通過点。

立ち止まることが出来ないポイント。

だから、

半ば強引に[中庸]という言葉を用いるなら、

偏っている自分を意識出来ている瞬間瞬間が、

中庸だったりします。

日々が辛いと、


心が安心出来る方を望む。

それは真っ当なことで、当然の願望。

けれど、

日々が辛すぎて、

辛いことすら分からないほどに、

感覚が麻痺していると、

求めるものが[物理的豊かさ]に限られてしまう。

そこにしか目が行かない時はあるし、

ある程度は無ければ始まらない!

そんな主張も大いにわかる。

社会的に生きていくためには必要だと、

そう信じてきたし、

そういう仕組みだったから。

でもね、

その[物理的豊かさ]を得たい目的は?と、

自分と向き合って、

深堀っていったなら、

行き着く先は感情だったりする。

日常のちょっとしたこと


人生を左右するかもしれないこと

自分の中には[悩みの度合い]がある。

けれど、他の誰かを思い描いて、

私の悩みを小さくしてはいないだろうか。

「きっと、みんなも抱えていることだから」

それって、自分を軽く見ているし、

他の誰かも軽く見ているよね。

私の悩みはわたしごと。

誰かの悩みは、私にはわからない。

聞いたところで、度合いはわからない。

わからないものを物差しにして、

私の悩みを小さくしないこと。

心の余白を埋めてしまうなら、

私にとっては一大事。

私の物差しは私の中で。

自分を大切にする計測器。