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アカツキブログ[まずは自分と向き合うことから]

心を扱う分野を知り、
自分と向き合うことの大切さを知って人生が激変!
思考、心、体。
どこかに偏りすぎると、他が悲鳴をあげます。
問題も、困りごとも、
悲鳴が形を変えて起きているのかもしれません。

愚痴や弱音を吐いてはいけない。


そう思っている人が、またまだ多い気がするのです。

常に、とか、

頻繁に、とか、

そういうレベルで出しているなら、

少々問題あるけれど。

愚痴とか弱音とかを禁止しているなら、

それはそれで大いに問題あるのです。

「口にしてはいけないよね」と思っているなら、

「口に出したいことがある」の裏返し。

消化不良が溜まっているなら、

出してしまわなければ、

溜まる一方だったりします。

いつの間にやら気にならなくなる。

そんなこともあります。

けれど、

解消したのか、

発散したのか、

あるいは、

麻痺してしまったのか、

封印してしまったのか。

自分以外の誰にもわからず、

麻痺したのなら、自分でもわからない。

そうならないように、

ちょこちょこと、小出しにしていかないとね。

目の前が暗いと、


周囲が暗いと、

不安になりやすかったり、

考え方がネガティブに寄ってしまう。

それは明るい世界を知っているから。

陰と陽。

どちらも大切で、

どちらも在るからこそ。

偏るのは当たり前。

一方向だけに偏り続けるから、

不具合が起きる。

ならば真ん中がベストで、

それは一般的に中庸という言葉で説明される。

けれど、

中庸というポジションは無いように思う。

居続けられる[中庸という席]は無くて、

偏る時に、ふと立ち寄る通過点。

立ち止まることが出来ないポイント。

だから、

半ば強引に[中庸]という言葉を用いるなら、

偏っている自分を意識出来ている瞬間瞬間が、

中庸だったりします。

日々が辛いと、


心が安心出来る方を望む。

それは真っ当なことで、当然の願望。

けれど、

日々が辛すぎて、

辛いことすら分からないほどに、

感覚が麻痺していると、

求めるものが[物理的豊かさ]に限られてしまう。

そこにしか目が行かない時はあるし、

ある程度は無ければ始まらない!

そんな主張も大いにわかる。

社会的に生きていくためには必要だと、

そう信じてきたし、

そういう仕組みだったから。

でもね、

その[物理的豊かさ]を得たい目的は?と、

自分と向き合って、

深堀っていったなら、

行き着く先は感情だったりする。

日常のちょっとしたこと


人生を左右するかもしれないこと

自分の中には[悩みの度合い]がある。

けれど、他の誰かを思い描いて、

私の悩みを小さくしてはいないだろうか。

「きっと、みんなも抱えていることだから」

それって、自分を軽く見ているし、

他の誰かも軽く見ているよね。

私の悩みはわたしごと。

誰かの悩みは、私にはわからない。

聞いたところで、度合いはわからない。

わからないものを物差しにして、

私の悩みを小さくしないこと。

心の余白を埋めてしまうなら、

私にとっては一大事。

私の物差しは私の中で。

自分を大切にする計測器。

【脱力すればするほど良い、とは限らない】


エネルギーを受け取る、
エネルギーを流す、となると、
状態としては中庸が良いと言われています。


私もヒーリングを習った時は、
自分にやるにも、他者にやるにも、
エネルギーの仲介役であれと言われました。


私(人)というフィルターを通すのだから、
なるべく自我を静めにする。


それはつまりリラックス状態。
そりゃあね、送り手がさ、
わちゃわちゃ考えていたら、
エネルギーの純粋さは失われるよね。
思考によってフィルター詰まっちゃう。


ならやはり、
リラックスすればするほど良くて、
めっちゃ脱力すればするほど良いんだなと。
かつての私は、そう捉えていたわけですよ。


しかし、それは、ある意味正解なのだけれど、
ズレているというか、
ズレてしまう可能性がある捉え方でした。


リラックスは脱力へ至り、
脱力が過ぎれば、ぼーーっとし過ぎた状態が出来上がる。
それじゃあね、いかんのですよ。


体はいくらでも緩めて良いし、脱力しても良い。
けどね、意識までもが、同じように脱力していては、
ズレる。ズレやすくなる。
危うい、と言っても良い。


今の私としては、
そう考えていますね。


リラックスしても、脱力しても、それは体の話。


意識は、リラックス状態であっても、自分を見失わないよう。