結局、『2012/01/30(月) バンガロールでの数日間』にて1週間をバンガロールで過ごし、「ホテル代もバカにならないのにぃ(/ _ ; )」と、いい加減精神的に待ちくたびれた頃に「マンガロールへ行くよ」という連絡が入りました。『2011/11/13(日) 一歩前進の気配』にてお会いした件のインド人男性と再会、ということになります。
バンガロール出発&マンガロール入りは1月31日(火)。バンガロール到着日にお世話になった日本人コンサルタントK氏も「2~3日間なら時間開けられます」とのことなので、ご同行していただくことになりました。
というわけで、一路バンガロール空港へ。
空港前で無事K氏と落ち合い、件のインド人男性・在米NRI(Non-Resident Indian / 非居住者インド人)のS・アディガ氏を待ちます。
ほどなくして現れた在米NRI(Non-Resident Indian / 非居住者インド人)S・アディガ氏。日本で二ヶ月前にお会いしたとき同様、一見「小柄で物静かな好々爺」風の風貌そのままでした。
S・アディガ氏はヒゲ氏・K氏・私の三名分のEチケット控えを我々にくださり、空港の中へと揃って入場しました。
(注: インドの空港は、パスポートと登場予定便Eチケットのプリントアウト用紙を警備の軍人さんに入り口でチェックしてもらわないと空港建物内に入場できないようになっています)
バンガロール~マンガロール間のフライトキャリアはキングフィッシャー。飛行機を利用すればわずか一時間弱のフライトです。
離陸した飛行機の機内で、サンドイッチを買って我々にくださるS・アディガ氏。キングフィッシャーのこの便は、機内食は自動付加ではなく自分で機内にて購入しなければいけません。
いただいたサンドイッチをありがたく頬張ります。客室乗務員の制服は真っ赤なミニタイトスーツでビビッドなお化粧の女性ばかりに見えます。いいのかなぁインドでこの制服、と内心ひそかに思う私。
そうこうするうちに、機体はマンガロール上空へとさしかかります。
窓から地面を見下ろすと、緑の木々が生い茂っているのが目に入りました。見渡す限り続くたくさんの木々。
嗚呼、やっとここまで来たんだ、来れたんだ、という思いがこみ上げてきます。
何せ、日本での経緯は「これじゃいつまで経っても現地にたどり着けないんじゃないか?」と思うくらい、計画にきちんとコミットしてくる人が誰もいなかったからです。
そもそも計画のうち、「自治区構築」はヒゲ氏のマスタープランの一部でしかなく、マスタープランの骨子と言える部分は一言で言えば「日本人が世界のどこへ行っても、日本人日系人同士のネットワークで互助しあい生きていけるようにする」つまり「和僑、日僑」を本当の意味で実現させたいというものです。古今東西の日本人移民史において、華僑と比べるとこれがちゃんと成功してるとは残念ながら言い難く、日本人移民史はある一面においては文字通り「仲間割れといがみ合いの繰り返し」だったようにも思えます。
平時ならいざ知らず、未曾有の大災害が日本を襲い「日本という存在そのもの」を心底考え直さざるを得ない局面に立たされてヒゲ氏が出した「未来を創る」ための考えのひとつがそのマスタープランだったわけです。
「人間として、大人として、日本人としてどうするべきか、どう責任を取って死にたいか」と考えたときに、「次の世代が生き抜いていける環境をどうにかして作ってやりたい」が彼の偽らざる本音だったということです。
広告、という他人の嗜好や消費を誘導し、トレンドを創り出す仕事を長年やってきた彼は「日本がこんな風になってしまった要因は俺たち日本の大人一人一人全員にある。俺はせめてその罪滅ぼしをしたいんだ」との思いで、自治区案を考え、文字通り自分の時間をすべて注ぎ込んで日本で準備にいそしんでいました。
ただ。
残念ながら同じような行動で追従したのは他には見当たらず……
皆さん、ご自分のお仕事や何かしらのしがらみや義務・責任等がそれぞれの生活の中にありますから、それを一概に責めるわけにもいきませんし、責める権利も我々にはありません。
とはいえ、何回か日系人ネットワークプロジェクトに関わるミーティングをやっても、出てくるのは「自分の仕事の○○をこうしたい」とか「やりたいことはあるんですけど、全部面倒見てくれますよね」とかそういう反応ばかり。何か大きな物事の基盤(しかも、「街を造る」となれば、慈善事業などではなく採算性のある大きな商業事業として考えなくてはいけません。)を造ろうという段階ではそれは無理な希望だろう、とヒゲ氏と二人で何回落胆して悲しい思いをしたか知れません。(議論できるように某SNS内に設けたミーティングページに、「避難希望」「いつ逃げ込めますか?」「ツアーで行きたい」という声ばかり寄せられるので、わずか数日でヒゲ氏が半泣きでページ公開をストップ、という一幕もそういえばあったっけ……(遠い目) ➡︎ 参考 「2011/06/26(日) そして閉鎖状態に。」)
インドへの最初の視察予算が他から出るはずだった予定も「国と東電のお金が一緒くたになっていて予算を都合できない(『2011/10/11(火) はぢめてのバリ島行き決定』参照)という話で流れ、「和僑」をキーワードに仲間作りをしているバリ島の某大富豪氏を直接訪ねた際には「まずは現地に行かないと説得力無いで~」と至極もっともなことを言われ、プロジェクトミーティングをやっても誰一人プロジェクトを進めるためのサポート予算を出そうとする人はおらず(事業家からも何人も参加者がいるのに一円たりとも出ないのにはどケチな私でもさすがに驚きましたΣ(゚д゚lll)⬅︎ これは純粋に「驚き」です。他意はありません)、結局ヒゲ氏と私2人分の私物から売れるものを売れるだけ売って売って売って…という経緯に。
私が売ったものはほとんどどれもこれも、自分の命の次に大切な武術資料やら、何十回死にそうに困窮しても手放してこなかった大切な大切なオタ系コレクションばかりでしたから、それらを売るのは本当に「身を切られるような」「断腸の思い」としか言いようがありませんでした。そのくらい我々2名は「本気で日本人の大人としての自分の責任を考え、命をかけようと思う覚悟」だったのです。
しかし、こうして先遣隊としてマンガロールに降り立つのは結局ヒゲ氏と私のみ。
NRIインド人のS・アディガ氏を紹介してくれた日本人ビジネスコンサルタント・ラズロド・グリダバ氏(プライバシー保護のため日本人名はグロンギ語翻訳にてお送りいたします)は後から来てくれるのだろう、という予定的観測を含み、とにかくまずは二人で頑張ろうという所存なのでありました。
バンガロール出発&マンガロール入りは1月31日(火)。バンガロール到着日にお世話になった日本人コンサルタントK氏も「2~3日間なら時間開けられます」とのことなので、ご同行していただくことになりました。
というわけで、一路バンガロール空港へ。
空港前で無事K氏と落ち合い、件のインド人男性・在米NRI(Non-Resident Indian / 非居住者インド人)のS・アディガ氏を待ちます。
ほどなくして現れた在米NRI(Non-Resident Indian / 非居住者インド人)S・アディガ氏。日本で二ヶ月前にお会いしたとき同様、一見「小柄で物静かな好々爺」風の風貌そのままでした。
S・アディガ氏はヒゲ氏・K氏・私の三名分のEチケット控えを我々にくださり、空港の中へと揃って入場しました。
(注: インドの空港は、パスポートと登場予定便Eチケットのプリントアウト用紙を警備の軍人さんに入り口でチェックしてもらわないと空港建物内に入場できないようになっています)
バンガロール~マンガロール間のフライトキャリアはキングフィッシャー。飛行機を利用すればわずか一時間弱のフライトです。
離陸した飛行機の機内で、サンドイッチを買って我々にくださるS・アディガ氏。キングフィッシャーのこの便は、機内食は自動付加ではなく自分で機内にて購入しなければいけません。
いただいたサンドイッチをありがたく頬張ります。客室乗務員の制服は真っ赤なミニタイトスーツでビビッドなお化粧の女性ばかりに見えます。いいのかなぁインドでこの制服、と内心ひそかに思う私。
そうこうするうちに、機体はマンガロール上空へとさしかかります。
窓から地面を見下ろすと、緑の木々が生い茂っているのが目に入りました。見渡す限り続くたくさんの木々。
嗚呼、やっとここまで来たんだ、来れたんだ、という思いがこみ上げてきます。
何せ、日本での経緯は「これじゃいつまで経っても現地にたどり着けないんじゃないか?」と思うくらい、計画にきちんとコミットしてくる人が誰もいなかったからです。
そもそも計画のうち、「自治区構築」はヒゲ氏のマスタープランの一部でしかなく、マスタープランの骨子と言える部分は一言で言えば「日本人が世界のどこへ行っても、日本人日系人同士のネットワークで互助しあい生きていけるようにする」つまり「和僑、日僑」を本当の意味で実現させたいというものです。古今東西の日本人移民史において、華僑と比べるとこれがちゃんと成功してるとは残念ながら言い難く、日本人移民史はある一面においては文字通り「仲間割れといがみ合いの繰り返し」だったようにも思えます。
平時ならいざ知らず、未曾有の大災害が日本を襲い「日本という存在そのもの」を心底考え直さざるを得ない局面に立たされてヒゲ氏が出した「未来を創る」ための考えのひとつがそのマスタープランだったわけです。
「人間として、大人として、日本人としてどうするべきか、どう責任を取って死にたいか」と考えたときに、「次の世代が生き抜いていける環境をどうにかして作ってやりたい」が彼の偽らざる本音だったということです。
広告、という他人の嗜好や消費を誘導し、トレンドを創り出す仕事を長年やってきた彼は「日本がこんな風になってしまった要因は俺たち日本の大人一人一人全員にある。俺はせめてその罪滅ぼしをしたいんだ」との思いで、自治区案を考え、文字通り自分の時間をすべて注ぎ込んで日本で準備にいそしんでいました。
ただ。
残念ながら同じような行動で追従したのは他には見当たらず……
皆さん、ご自分のお仕事や何かしらのしがらみや義務・責任等がそれぞれの生活の中にありますから、それを一概に責めるわけにもいきませんし、責める権利も我々にはありません。
とはいえ、何回か日系人ネットワークプロジェクトに関わるミーティングをやっても、出てくるのは「自分の仕事の○○をこうしたい」とか「やりたいことはあるんですけど、全部面倒見てくれますよね」とかそういう反応ばかり。何か大きな物事の基盤(しかも、「街を造る」となれば、慈善事業などではなく採算性のある大きな商業事業として考えなくてはいけません。)を造ろうという段階ではそれは無理な希望だろう、とヒゲ氏と二人で何回落胆して悲しい思いをしたか知れません。(議論できるように某SNS内に設けたミーティングページに、「避難希望」「いつ逃げ込めますか?」「ツアーで行きたい」という声ばかり寄せられるので、わずか数日でヒゲ氏が半泣きでページ公開をストップ、という一幕もそういえばあったっけ……(遠い目) ➡︎ 参考 「2011/06/26(日) そして閉鎖状態に。」)
インドへの最初の視察予算が他から出るはずだった予定も「国と東電のお金が一緒くたになっていて予算を都合できない(『2011/10/11(火) はぢめてのバリ島行き決定』参照)という話で流れ、「和僑」をキーワードに仲間作りをしているバリ島の某大富豪氏を直接訪ねた際には「まずは現地に行かないと説得力無いで~」と至極もっともなことを言われ、プロジェクトミーティングをやっても誰一人プロジェクトを進めるためのサポート予算を出そうとする人はおらず(事業家からも何人も参加者がいるのに一円たりとも出ないのにはどケチな私でもさすがに驚きましたΣ(゚д゚lll)⬅︎ これは純粋に「驚き」です。他意はありません)、結局ヒゲ氏と私2人分の私物から売れるものを売れるだけ売って売って売って…という経緯に。
私が売ったものはほとんどどれもこれも、自分の命の次に大切な武術資料やら、何十回死にそうに困窮しても手放してこなかった大切な大切なオタ系コレクションばかりでしたから、それらを売るのは本当に「身を切られるような」「断腸の思い」としか言いようがありませんでした。そのくらい我々2名は「本気で日本人の大人としての自分の責任を考え、命をかけようと思う覚悟」だったのです。
しかし、こうして先遣隊としてマンガロールに降り立つのは結局ヒゲ氏と私のみ。
NRIインド人のS・アディガ氏を紹介してくれた日本人ビジネスコンサルタント・ラズロド・グリダバ氏(プライバシー保護のため日本人名はグロンギ語翻訳にてお送りいたします)は後から来てくれるのだろう、という予定的観測を含み、とにかくまずは二人で頑張ろうという所存なのでありました。