『2011/03/27(日) 本当に貴重なお話を聞いてきました。』にて聴講してきた「被爆医師」である肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)先生のご講演「ピカドンからの66年」は、肥田先生自身がたいへんなご高齢であるということもあって、本当に本当に貴重なお話だったと思います。

先生の主な経歴は以下の通りです。

1917年広島生まれ。
1944年陸軍軍医学校を卒業、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。
1945年広島にて被爆。被爆者救援にあたる。全日本民医連理事、埼玉民医連会長などを歴任。
現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。
著書に『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)、
『内部被曝の脅威』(共著、ちくま新書)など。


1945年に広島で被曝され、2011年3月のこの時点で66年にわたって被曝医療・被曝者支援をひたすら続けてこられた方です。

1945年8月6日、広島にウラン型原子爆弾リトルボーイが投下されたその日、肥田先生は広島県戸坂村に往診に出かけており、そこから広島市に立ち上るキノコ雲を見たとのことです。
その様子を事細かに話して聞かせてくださるのですが、ちょうど途中まで読んでいた先生のご著書『内部被曝の脅威』の中に著わされている自らの被曝体験そのままでした。
先生のお話を聞きながら私の脳裏に浮かんできたのは、中学生の頃に劇場へ足を運んで観に行ったアニメーション映画『はだしのゲン』の原爆投下シーン。
アニメーションとはいえ、原爆投下の際の悲惨さが目をそらすことのない描写で描かれていたことと、劇場の大スクリーンで中学の時に観た時の被爆シーンの強烈な印象そのままの情景が先生の口から語られます。

目の前の好々爺然としたお優しい風貌の先生が、そのような壮絶な体験をしてきたのだ、ということも相まって、胸が詰まり目の奥で涙が浮かんでくるのをどうしても止められません。
マイミクさん1名と一緒に最前列で“かぶりつき状態”で一生懸命耳を傾けていたせいもあり、先生のお話から文字通りの「この世の地獄」を髣髴とさせる情景が脳裏に浮かびあがります。



ご自身の広島での原爆体験、原爆被爆者の治療に来る日も来る日も従事し、その過程でご自身も内部被曝。
文字通り「毎日バタバタ亡くなっていく」被爆者を助けたい一心で、終戦後勤務を命じられたABCC(Atomic Bomb Casualty Commission=原爆傷害調査委員会/現在の財団法人放射線影響研究所(RERF))が被爆者診療を一切せずにデータを採取するだけの姿勢を一貫することに苦言を呈し、それが原因でABCCを離職。
他の病院にも圧力がかかっていたそうで雇用してくれる医療機関がなかったため、やむを得ず資金もないままに自らの診療所を立ち上げなくてはなりませんでした。

そこからの66年が、どれだけの苦労であったのか......思いを馳せようとするだけでも気の遠くなるようなご苦労をされてきたことが容易にうかがえます。

未知の原子爆弾による未曾有の大被害。医師でありながらバタバタ倒れていく被曝患者を助けることができない無念さ。人体における内部被曝の研究が公式では許されない日本において、現場で何千人もの被曝者を診察し続け、診療に努め、手探りで「被曝」という存在と闘い続けた日々。

「無関心でいてはいけないのだ」

そう痛感せずにはいられない、重い現実と忘れてはならない歴史がそこには厳然と存在していたのです。


先生のお話を聞きながら、小学校高学年から中学時代にかけて前述のアニメーション映画『はだしのゲン』や、実写映画『子どもの頃戦争があった』などの戦争関連作品や、同じく実写映画『兎の眼』『紀子は、今』などの社会派作品に惹かれ、何もできないなりに考えていた自分を思い出させられもしました。
完全な無関心というわけではなかったはずなのに......いったい私は何をしていたのだろう.......。
自分自身にとって嫌なことつらいこと苦しいことがあまりに数多過ぎて、それらに囚われ続けていたかとはいえ.........。
胸の奥がキリキリと音を立てて痛むほど、猛省せずにはいられませんでした。

先生が被曝者数千人の「命」と診療現場で数十年間向き合い続け、何とか助けたいとその支援に人生全体を通して関わり続けてきた経験を聞くだけでも、電離性放射性物質(人工的な核エネルギー開発によって発生する、自然界には本来は存在しなかったはずの核種)が、少なくとも今2011年時点での現代の人間と安全に共存することはまったくもって不可能なのだという「厳しい現実」を思い知らざるを得ません。

肥田先生は、原子力専門の学者や、物理学者ではありません。
ですから、先生が経験してきた「被曝の実態」というものは、誰かの論文や研究室の中での物質を相手にしてきただけの経験とは違い、「実際にこの世に生を受けた生命そのもの」です。
「生命が被曝をしたらどうなるのか」という事実・現実そのものを何千も実際に目の当たりにしてきたのです。
数千人もの「人間の生命」そのものと正面から向き合い続けてきたのです。
その数千人分の「命の重み」が、高線量であれ低線量であれ「電離性放射性物質に被曝することのリスク」を教えてくれます。
私がこの時点で感じた予測は「安全安心、とは少なくとも言い切れない」ということ。
実際、肥田先生自身この講演の最後のほうで「(東電福一原発事故由来の放射性物質は)最低でも200キロの範囲まで(被害が)及ぶ可能性がある」とはっきり言及しておられました。
「自分は大丈夫」「自分には関係ない」が通用しない環境に、この日本全体が陥ってしまったのだということを、どれだけ嫌でもどれだけ不都合な真実でも、目をそらさずに見つめていかなければいけないのだ......と覚悟せざるを得ないのが正直なところでした。


この日の時点で94歳のご高齢であるにも関わらず、休憩時間を除いた講演の間ずっと座ることなく立ったまま語り続けてくださった肥田先生。
「(広島長崎の原爆投下で被爆したすべての人間にとってあの日の記憶は)どんなに長い時間が経っても、自分達の中で絶対に良い思い出に美化されることがない(辛さ苦しさしかよよみがえってこない)記憶」
という言葉が、胸に突き刺さって忘れられなくなりました。

「あんなこともあったよね」「あの時は苦しかったけど、あれがあるから今があるよね」
と自分を納得させることが、自らの死の瞬間までどうやってもできない経験。
それはどれほど大きな苦しみなのだろうか、と。
この話を聞いたことを、それによって感じた心の痛みを、絶対に忘れてはいけないと、内心誓わずにはいられませんでした。

講演終了後、先生と一緒にお写真を撮らせていただき(『2011/03/27(日) 本当に貴重なお話を聞いてきました。』参照)、お話の内容を周りに広めてお伝えしても良いかどうか直接おうかがいしたところ、「どうか伝えてください」とのお言葉をいただきました。
ご自分と同じ苦しみを受ける方がこの世界中において一人でも少なくあって欲しいとの思いでしょう。
「はい」と返事をした私は、勝手ながら自分の心の中で先生と「伝えます」という約束を交わしたような気持ちになりました。

私は知ってしまった。
そして、とても目をそむけて知らないふりをすることができない自分の心に気づいてしまった。
だから、この日のことを、先生が私たちに話してくださったお話を絶対に忘れないように努めよう。
そう思わずにはいられませんでした。




ところで。

この日一緒に講演を聴講したマイミクさんは、海外生活経験者。
我々2人の「これからの日本はどうなるんだろう」予測は揃ってネガティブ(苦笑)。
今までに起こっていた現実と、今起こっていて向き合わざるを得ない現実と、それによって何が起こり得るかという予測を素直にしていったら、ポジティブな要素が導き出せないという実にシンプルな要因によるからなのですが。
どうか当たって欲しくない予測ではあります。ネガティブな予測は外れるに越したことがありませんから.........。
(`ーωー)人 <ナムナムオネガイワルイコトオコリマセンヨウニ~



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