現在は私立美術館と図書館になっており、軍事や教会建築、語彙集が描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの「トリヴルツィオ手稿」や、ミケランジェロが死の直前まで彫り続けた未完の大作「ロンダニーニのピエタ」がある。
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レオナルドが描いた天井画がある「アッセの間」。
天井のアーチ形状と一体化した木々がまるで森の中にいるような感覚を引き起こす。
木の枝にはレオナルド特有の幾何学的な組紐パターンが使われている。

鷹と蛇で飾られた天井中央のスフォルツァ家の紋章。

広大な中庭には、レオナルドによる巨大な騎馬像が設置される予定だったが、結局未完のままに終わっている。1494年、ルドヴィーコの義父フェッラーラ公からの圧力により、騎馬像を鋳造するためのブロンズが全て大砲製造用としてフェッラーラに運ばれてしまったのだ。そして1499年にはフランスのルイ12世軍がミラノを占領、騎馬像の原型も破壊されてしまい、この壮大なプロジェクトは水泡に帰した。

1967年、マサチューセッツ大学のジュール・ピクス博士がマドリッド国立図書館で偶然発見した「マドリッド手稿」Ⅱの最後の部分17紙葉に、この騎馬像の鋳造についての記録が描かれている。
レオナルドが作業を開始したのは1490年5月17日、その後1493年12月20日には、地下水の影響を避けるために上下逆さに立てて鋳造するのではなく、馬を横に寝かせたかたちで鋳造するというメモが書かれている。
1493年12月20日のこの日、私は尻尾なしに横にして馬を鋳造する決心をした。というのは、それを逆さまに鋳造すると、馬は12ブラッチョもあるので、水まで1ブラッチョの間隔となってしまうからである。しかも、土を取り除くことができないから、湿気のために私の作品はだめになるであろう。なぜなら、鋳型を長時間地下に置くと、水からほぼ1ブラッチョの頭部に湿気がしみ込んで、鋳造は失敗するに違いないからである。(マドリッド手稿Ⅱf.151v)
鋳造のプロセスはこうだ。まず、粘土で原寸大の原型を作り、次に鋳型を作る。
この鋳型は粘土原型から取った蝋原型を耐火性の材料の層で内側と外側から挟み、鉄製の枠で固定する。
最後に「ロストワックス法」と呼ばれる蝋原型を熱で流し出し、その部分に溶かしたブロンズを流し込む手順でブロンズ像の鋳造を行うという計画である。
騎馬像のサイズは蹄から頭頂までが12ブラッチョ(約7.2m)、必要なブロンズは75トンという非常に大きなものだった。
粘土原型は、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの姪ビアンカとハプスブルグ家の神聖ローマ帝国マクシミリアン一世との結婚の式典で展示され、観衆の驚きがバルダッサーレ・タッコーネの詩にも表現されている。
見よ、彼(ルドヴィーコ)はコルテで作らせている
父の記念のために、偉大な金属の巨像を。
断固として私の信ずるところ、疑いもなく
ギリシアでもローマでも、かくも大なる像は見られたためしはない。
かの馬がいかに美しいか見るが良い。
ひとりレオナルド・ダ・ヴィンチがこれを作ったのだ。
ここでいうコルテとは、ミラノ最初の王朝ヴィスコンティ家の城館コルテ・ヴェッキアのことであり、大聖堂広場の南側に18世紀に王宮が建設されるまで存在した建物である。巨大な騎馬像を制作するためにはこのような広大なスペースを必要としたが、レオナルドもこの城館に住居を構えていた。ここでは騎馬像の制作だけでなく、その広さを活かして飛行機械や様々な機械の研究も行っていたらしい。
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