鉄道車両の“デパート”だったあの路線 | アラカンのリハビリライフ☆五体満足を目指して

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2020年に脳出血で左片麻痺に。自主リハビリを続け、回復への道のりや旬の話題、趣味について発信していきます。

 

こんにちは、デイヴですニコニコ

ご訪問ありがとうございます<(_ _)>

2020年3月半ばに脳出血を発症。

左片麻痺の後遺症があるも、リハビリに勤しみながら

五体満足の身体に戻すべく奮闘中💪

 

日々の暮らしの中で起きた小さな出来事や

半年間の入院中のエピソード、

自分の歩んできた半生、

好きな鉄道ネタを気ままに綴っています照れ

よろしくお願いしますおねがい

写真はネットからお借りしていますm(__)m

幼稚園児だった1960年代の終わりごろ、昭和で言うと43〜44年にかけて、

大阪府堺市に居住していました。

当時、Mくんという幼馴染がいて、毎日一緒に幼稚園に通い、

帰宅してからもほぼ毎日一緒に遊んでいました。

自宅は堺市浅香(あさか)の交差点脇のアパート(関西では「文化住宅」と言います)で、

Mくんは交差点反対側の巨大なアパート(7〜8階建てくらい)に住んでおり、

2人でよく屋上に上ったものです。

当時は高い建物も多くなく、屋上からは大和川を挟んで

大阪市内の街並みを一望できたと思いますが、

遠望の景色にほとんど記憶はありません。

それよりも、眼下には国鉄阪和線(現JR阪和線)の線路が俯瞰でき、

大和川に近い浅香駅を介して列車が頻繁に通過していました。

その頃から電車っ子だった僕は、Mくんと共に

通過する列車をまじまじと見つめていました。

当時の国鉄は、経済成長下でたくさんの新型車がデビューしていましたが、

なぜか阪和線はお古の車両ばかり回され、

車体色こそ中央線と同じ明るいオレンジ色に塗られてはいたものの

重くて鈍重な旧型国電が幅を利かせていました。

京阪神間の東海道線には、京浜東北線と同じ

水色の103系新型電車が走り始めていましたが、

阪和線に投入されるのは1969年ごろからになります。


当時は思い出したように貨物列車もやってきましたが、

貨車を引っ張るのは、戦前から走っていそうな

旧型の電気機関車。

大阪(天王寺)と和歌山を結ぶ路線ゆえ「阪和線」と名付けられ、

阪和間はいわゆる通勤や通学の利用客が圧倒的に多い通勤路線ですが、

線路は和歌山から紀勢本線に繋がっていました。


紀勢本線は、和歌山から三重県の亀山までを紀伊半島の外周を半周する路線。

沿線は南紀白浜やごぼう、有田、串本、新宮と、

名だたる観光地があることで同地を目的とする

観光主体の特急や急行が数多く設定されていました。

ところが当時の紀勢本線は全線非電化で電車は走れず、

勢いディーゼルカーの活躍の場。


特急『くろしお』や、


急行『きのくに』などは、気動車(ディーゼルカー)で

運転されていました。


これら紀勢本線直通の特急や急行も、

阪和線を介して大阪・天王寺から発車していて、

あぱの屋上から線路を眺めていると、

時折、『くろしお』や『きのくに』を見送ったものです。

旧型の国電や茶色の旧型電気機関車、

長いディーゼルカーの編成など、

さながら鉄道車両の“デパート”のような光景を、

夕暮れまでずっと目を輝かせながら眺めていたものです。


あれから約60年。

くだんのアパートは取り壊されて今や葬祭場となりました。

紀勢本線は1978年に電化されて特急『くろしお』も電車に代替わり。

JRになった今は、

『きのくに線』の愛称で、

新世代の特急電車が大阪と紀伊半島を直結しています。



かつてお古ばかりの電車を回されていた阪和線は、

関西空港の開港後はメインの連絡ルートとなって、

新型電車が優先的に投入され、

近代的な路線に変貌しています。


時が変われば、鉄道を取り巻く情勢も別次元のように

変わるものです。


ただ一つ変わらないものがあるとすれば、

当時住んでいた文化住宅が

未だに現存していること!

時がゆるせば再訪し、幼年時代の思い出に

寄り添いたいものです。