脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

2020年3月に脳出血を発症し左片マヒに。リハビリとスピワークを通して、全快復を目指すおじさんの手記。併せて半生を振り返る半生記をエッセイ風に綴っています。

 

こんにちは、デイヴですニコニコ

ご訪問ありがとうございます<(_ _)>

2020年3月半ばに脳出血を発症。

左片麻痺の後遺症があるも、リハビリに勤しみながら

五体満足の身体に戻すべく奮闘中💪

 

日々の暮らしの中で起きた小さな出来事や

半年間の入院中のエピソード、

好きな鉄道ネタを気ままに綴っています照れ

よろしくお願いしますおねがい


2024年夏。全国的に「米不足」の話が伝わってきています。



昨年の豪雨禍による稲作地帯の水害で作柄があまり良くなかったことに加え、

インバウンドの脅威的な伸びで来日する外国人観光客が急増。

米の需要が一気に高まる中、

お盆直前に『南海トラフ地震注意報』が発令されたおかげで

米の買い占めが横行。

もともと稲刈り前で米の流通が少ない時期ということもあり、

スーパーの棚から一気に米が無くなったとのこと。


大手チェーンでは「1人1袋まで」と制限を設けるケースもあるらしく、

この騒ぎは新米が出回る時期まで続きそうな勢いです😅


このニュースを見聞して、ハタ、と思い出しました。

「そう言えば、子ども時分は、お米は米屋でしか買えなかったな」

と。

今でこそスーパーやディスカウントストア、ドラッグストアでも売っているお米。

果てはネット販売もあり、気軽にゲットできますが、

僕が学校に通っていた青少年時代、

スーパーに行っても米は陳列されていませんでした。

記憶が確かなら『食糧管理法(食管法)』という法律が災いしていたように思います。

日本人の主食は米。そして次に重要な穀物は小麦。

戦中戦後の食糧難の時代、国は主力穀物の流通を調整し、

広く国民に米を行き渡らせるため、この法律を厳格に運用し、

米や小麦の販売価格まで決めていました。

米穀の販売には免許が必要で、お米屋さんには免許が与えられていましたが、

基本的に量販店等には下付されておらず、米屋は「規制業種」になっていたんです。

わが家も行きつけの米屋があって、定期的に精米した米を配達してもらっていました。

その食管法は、戦後長く運用されていましたが、

「米余り」の時代にふさわしくないということがようやくわかった国は、

平成に入ってから廃止。免許制ではなく届出制になってから、

米を販売する量販店が一気に広まったんですね。


わずか40年前の日本では、米はどこでも買えるモノじゃなかった、

という事実に改めて驚きです😳


ついでに言うと、ビールなどの酒類も

その昔、スーパーの店頭には並んでいませんでした。


ビールを買いたいなら出入りの酒屋さんの御用聞きに注文するのがふつう。

漫画『サザエさん』に出てくる『三河屋さん』のイメージそのもです。

ビールなどの種類には「酒類販売免許」が必要で、これも酒屋の経営保護の切り札でした。

以前、酒類販売免許は量販店では基本下付されなかったのが、

その慣わしに横やりを入れたのがコンビニチェーン。

大手のセブンイレブンは、酒類販売の粗利が大きいことに目をつけ一計を案じ、

酒屋さんに対してコンビニ店のフランチャイズ契約を持ちかけたのです。

東京・豊洲のセブンイレブン1号店は、もともと酒屋さんでした。

当然酒屋は販売免許を持っていますから、自動的に「酒を売ってるコンビニ」ができあがったんです。

なし崩し的に「酒を売るコンビニ」が当たり前になり、法律等も変わって、

今はスーパーやディスカウントストア、ネットでもふつうに酒類を売るようになりました。

規制業種で我が世の春を謳歌していた米屋・酒屋は

たまったもんじゃありませんが、

今も生き残っている米屋や酒屋は、

相応の特徴を前面に出して励んでいらっしゃるんですね。



 

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2020年3月半ばに脳出血を発症。

左片麻痺の後遺症があるも、リハビリに勤しみながら

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今年(2024年)は、🚅東海道新幹線が還暦を迎えるそうです。

東海道新幹線の東京−新大阪間が開業したのは、

前の東京オリンピック開催直前の1964年10月。

大阪生まれ大阪育ちの僕は、

幼児時代に何度か上京し、そのたびに新幹線のお世話になりました。

当時、500km離れた都市間をわずか3時間程度で結ぶというのは

画期的なことでしたが、幼児の僕は、いくら電車好きとは言え、

飛ぶように流れる景色を愛でるのはせいぜい1時間が限度。

残りの2時間は一気に時間を持て余し、

親戚が座る3列席を行ったり来たりしながら、

面倒な1人遊びをしていました😅

しばらくは新幹線は東京−新大阪間と決まっていましたが、

1972年3月、山陽新幹線の新大阪−岡山間が開通。

この時に呼び名が単なる「新幹線」に「東海道」「山陽」が冠されるようになります。

「新幹線が延伸する」ニュースは子ども心によく覚えています。

「『ひかり』は西へ」というキャッチコピーが印象的で、

国鉄大阪駅などではこのコピーを大書した横断幕が

天井に大きく飾られていました。

 

 

 

 

母方の祖母は、初孫でもない僕をことのほか可愛がってくれ、

もともと外出するのが好きな人だったので、

何かといろんなところに連れてってくれました。

父兄同伴だった幼稚園の遠足も、祖母が同行してくれたほど。

 

そして山陽新幹線が開業してしばらく経った頃、

祖母から「乗りに行かないか」とお誘いが来ました。

 

当時小学3年生だった僕は、一も二もなくその提案に乗り、

ある週末に祖母と共に新大阪駅の駅頭に立ちました。

 

はやる気持ちを抑えてホームで待っていると、

東京方面から岡山行きの『ひかり』が入線。

 

大半の乗客はここで下車するのですが、ここから乗り込む人もたくさんいます。

 

記憶は定かではありませんが、まだ開業時の喧騒が残っていて

乗り試す人が多く、指定席は満席、自由席も立ち客でいっぱい。

確か僕の記憶では、デッキで立ちっぱなしだったような……😅

新大阪を出た『ひかり』は高い高架橋をしずしずと進みます。

眼下には在来線の車両基地があって、

ブルートレインや北陸方面行きの特急電車、

急行用の電車やディーゼルカーが所狭しとスタンばっていて

まるで模型のジオラマを見ているよう。

 

徐々にスピードを上げた『ひかり』は、

いつのまにか時速200キロほどになり、眼下に見えていた人家が目線の高さになって

山が迫ってきたと思ったら延長約16kmの六甲トンネル。

当時は日本一長い山岳トンネルでした。

 

いかな超特急『ひかり』でもくぐり抜けるのに10分ほどかかり、

ようやくトンネルを抜けると、新神戸駅をゆっくりと通過。

今は『のぞみ』含め全列車が停まる新神戸駅も、当時は通過する『ひかり』があったんです。

岡山開業時には、名古屋と京都しか停まらなかった『ひかり』も、

新大阪以西はすべての駅に停まったり、

新神戸と姫路に停まるパターンもありましたが、

確か僕と祖母が乗ったのは速達型の『ひかり』で、

新大阪の次は岡山終点だったかと。

数駅過ぎて、しばらく山とトンネルの連続だった沿線に

チラホラと建物が見えてきて

ビルが目立ってくると岡山の街。

約1時間で岡山駅に到着しました。

 

当時、山陽新幹線は岡山まででしたが、

3年後の1975年3月には

一気に博多まで全線開業することになります。

(そう言えば来年(2025年)は

山陽新幹線博多開業から半世紀になるんですね)

 

岡山に着くと、祖母と共に岡山観光。

駅前から市電に乗って、岡山城袂の名園『後楽園』を見物。

 

 

園内のレストランで初めて『チキンライス』を食べました。

 

ケチャップライスの中に入っている鶏肉の風味が絶妙で、子ども心に

「チキンライス、うめ〜〜っ😋」と驚嘆したことです。

 

その後、岡山を代表する百貨店『天満屋』でお土産を買い求め、

岡山駅からの帰路は新幹線ではなく、在来線の普通列車。

緑とオレンジのカボチャ色の電車がこれまた鉄道好きにはたまらず😆

 

山がちの中を集落をたどりながら淡々と走り抜けて姫路へ。

姫路から快速電車に乗り換えて大阪へ帰着。

 

往きは『ひかり』でひとっ飛び。

復りは在来線の普通列車でゆっくりと景色を愛でながら乗車を楽しむ。

 

それまでは目的地までの移動手段として「鉄道に乗る」ことを楽しんでいましたが、

今回の旅は「新幹線に乗る」ことが目的

 

まさに「乗り鉄」

「乗り鉄旅」の楽しさを教えてくれたのが祖母だった、

と言っても過言ではありません😃

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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左片麻痺の後遺症があるも、リハビリに勤しみながら

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日々の暮らしの中で起きた小さな出来事や

半年間の入院中のエピソード、

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こんにちは。デイヴです。

⬇️今週に入って、市役所からこんな通知が郵便受けに投函されていました。

 

定額減税の「調整金」という名目で、ほんのちょっぴりですが

数万円返ってくるとのこと。

こういうことを予期していなかったので、

ハッピーな気持ちになりました😊

確認書を返送する必要がありますが、

スマホからオンライン提出できるとのことで、さっそく実行。

 

ところが、本人確認書類の写メを添付する項目で、

マイナカードの異なる面を添付して提出してしまいました😱

 

なかなか繋がらない問い合わせ窓口へのアクセスを何度か試み、ようやく繋がり、

窓口嬢に要件を伝えると、

「確認書は受理できていますので、不備が確認できたら

こちらからお知らせします」

とのこと。

添付する面を間違えているので、確実に不備なんですけどねぇ……😅

 

じたばたしても始まらないので、役所からの連絡をじっくり待つことにするとしましょう。

 

 

こんにちは、デイヴです。

2020年3月半ばに脳出血を発症。

約半年間の入院生活で経験した
さまざまなできごとを回想録として綴っています。


「病院食は味が薄い、まずい」

と評されたのははるか昔のこと。

僕が入院したときの毎食は、

そこそこの味付けでした。


もっとも入っていた給食業者は、

「マズい」で定評だった元勤務先の

社食と同じ業者でしたが😅

間食はほぼ無かったことから、毎食前は腹ペコで、

「なに食っても旨い😋」

口になってましたから、それも病院食の印象向上に

役立ったかと。

季節の節句ごとに特別なメニューがあったりしました。

内容はほぼ忘れましたが、

七夕のときは、昼食がちらし寿司だったのを覚えています。

それから毎週金曜日の朝食はロールパン、

昼食は麺類。時にカレーライスの時もありました。


ロールパンは3個しかなくて、とても満腹にはならないので、

看護師さんにお願いして、

途中から個数を増やしてもらいましたっけ。


廊下の掲示板には、週ごとのメニューが貼られていて、

週の始めにチェックするのが習慣になっていたものです。


さて金曜日の夕食は、自分でメニューを選べるようになっていて、

前日に看護師さんにリクエストを受け付けてもらっていました。


基本、魚料理か、肉料理か、という選択肢ですが、

いつも空腹感があったので

「ガッツリ食べたい」欲求にほだされ、

いつも肉料理のメニューを選んでいたのですが、


いつの間にか前日のメニュー選択が途絶えてしまいました。


「なんで途絶えたんだろう?」


不思議に思った僕は、看護師に訊ねます。


時間をおいて、彼女から聞いた説明は、


「デイヴさんの尿酸値が高いから、

肉料理が出せなくなったのよー」


あ😱


10日ごとの採血で検査するわけですが、

どうやら血中の尿酸値の値が基準値を越えたみたい。


皆さんと同じメニューしか食してないのに、

どうして自分だけ血中の尿酸値が高くなるのか?


たぶん、体質なんでしょう。


結局、退院するまではメニュー選択の特別扱いは無くなり、

「療養食」一本槍になりました💦


こんにちは、デイヴです。

2020年3月半ばに脳出血を発症。

約半年間の入院生活で経験した
さまざまなできごとを回想録として綴っています。


介護度の認定調査によって『要介護1』に確定したことで、

院内のソーシャルワーカーさんから

退院に向けて次の段階への案内がなされました。


妻とは死別、子どもは独立済みの独居生活ですので、

退院後の自宅暮らしは日々の生活を介助してくれる人や

組織が必須。


退院後の生活においては、『ケアマネジャー』

という役割の人がいて、彼らが介護保険に応じた

介護生活のメニュー(『ケアプラン』)を編成、

しかるべき介護サービス事業所に掛け合って

日々の生活のサポートをしてくれます。


これまで『ケアマネジャー』の存在は何となく知っていましたが、

後遺症の身となった今、

ケアマネジャーさんとの繋がりが、

生きていくために不可欠であり、

にわかにクローズアップしてきたわけで……。


じゃあどうやってケアマネジャーとコネクションが取れるのか?

ということですが、

ソーシャルワーカーさんからは、

市内のケアマネジャー事務所の一覧表をもらいました。

居住地に近い事務所がずらりと並んでいました。

次いで居住地を管轄している『地域包括支援センター』への

アクセスを求められます。


介護が必要な「高齢者向けの組織なので自分には無縁」

と判断していたのに、まさかこの齢でお世話になるなんて。

どことなく“敗北感”を覚えつつ、割り切って通話しました。

応対に出た女性職員からケアマネジャー事務所の一覧表を

持っているか訊ねられ、目の前にあることを告げると、

「どこの事務所が良いか、希望があったらおっしゃってください」

と。


(こんなの、どういう基準で優劣決めればいいかわからないし、

ぶっちゃけ何が良いかわからん!)

というのが正直なところ。


なので五十音順で最も上の事務所名に目が行き、

エイヤでその事務所名を告げました。

「ハイ、わかりました。こちらから連絡とって、

折り返しデイヴさん宛に連絡が行くようにしてもらいますね」


包括支援センターの職員もハキハキと丁寧に応対してくれましたが、

次いでケアマネジャー事務所の責任者から着信。

こちらも語尾がキビキビとして好感持てる女性でした。

僕を担当してくれるケアマネジャーは後日決まり、

その人にケアプランを作ってもらって、2024年夏現在も

担当してもらっています。

作ってくれるケアプランも現実的な内容で、

こちらの要望も正確に受け止めてくれて的確に対応してくれる、

とても信頼が置けるケアマネさんです。


病床で「エイヤ」で決めた事務所でしたし、

たまたまその事務所に在籍していたケアマネさんに担当してもらっているわけですが、

こんなに『大当たり🎯』だったとは!


巷では、ケアマネさんとのイザコザが原因でまともな介護サービスを

受けられていない事例もけっこうあるようですから、

この『大当たり』には「自分も良い『ツキ』を呼び寄せているな」

ということを実感しましたし、

今でもつくづくそう思っています。