「必要なのは兵と弾じゃ」
第三軍参謀長 伊地知幸介
「弱点などどこにある?」
第三軍司令官 乃木希典
『坂の上の雲』に描かれたドラマは歴史ではない。日本が戦争に昂揚し、やがて破滅へと向かう長い序章を描いた物語である。そう、物語です。
誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。こうした痛々しいほどの昂揚がわからなければこの段階の歴史はわからない。(ドラマ冒頭のナレーションより)
失われた10年を経てリーマンショックで景気の低迷の真っ只中をさまよい、そして千年に一度の津波と原発事故に喘ぐ今の日本には、この物語で描かれる昂揚はまったく感じられない。この島国に生きる人々がひとつにまとまることはもはやありえない。しかし明治37年当時の日本がひとつにまとまっていたというなら、それは「恐怖心」が誰の胸にもあったからだろう。ロシアに負けたら国土を占領され植民地化されることを恐れたからだ。もしかしたら、日本人という種族は明治を最後に滅んでいたかもしれない、そんな痛みを心の隅において『坂の上の雲』を見るのが、明治という時代の精神を明らかにできる方法なのかもしれない。しかし、戦争という民族をあげて行う拡張行動が意味を成さないことを知っている今の日本人からすれば、明治はまるで御伽噺のような晴れやかな昔の錦絵のように写る。
はたして、明治の人間は平成の人間とどこか違っていただろうか?
正直、何も変わっていないのではないか。旅順攻略戦における乃木(柄本明)と伊地知(村田雄浩)を見る限り情報を得ることに疎く、機を見るに鈍いところはやはり同胞の御先祖という気がする。
旅順。今話題の北朝鮮の左から手のひらで囲った海の中に突き出た半島、その先端にあるのが旅順である。ロシアはそこにコンクリートで固めた大要塞を築いている。そこに併設した港にロシアの旅順艦隊がじっと身を潜めている。日本の連合艦隊としてはどうしても旅順艦隊を殲滅しなければならない。大西洋を回って接近するバルチック艦隊が日本近海に現れ、旅順艦隊とともに挟み撃ちしてしまえばまず勝ち目はない。当然、ロシア目指して進軍する陸軍に物資を送れず、それどころか海と陸から挟み撃ちされて陸軍は野垂れ死にしてしまう。だから、旅順を攻略し、少なくとも旅順艦隊のねぐらとも言うべき旅順港から追い出してくれればいい、だから海軍の秋山真之(本木雅弘)参謀は祈るような思いで陥落を待ちわびている。しかし第3軍(乃木軍)がやっていることは要塞のもっとも強固な防御壁にむかってひたすら兵隊を向かわせるに等しい。まさに死の行軍を行っている。だから秋山は第十話の中ではただイライラするばかりになっている。
この攻略戦の事実はどうかわからないが、物語の中ではとにかく乃木とその周りを囲む参謀が兵隊と物資をいたずらに損失するばかりの無能さをもって描かれてる(ドラマではそこが多少薄まっているが、小説ではかなり辛らつである)。コンクリートで固めた要塞に押し鞍饅頭をしても拉致が開かない。28サンチ榴弾砲という大砲のお化けを撃って空中から弾を撃ち込んで爆破する案を知っても
「設置に2ヶ月かかる。それでは総攻撃に間に合わない」
との伊地知のひとことで却下される。あとは鉄砲に込める銃弾の補充をまって肉弾戦を仕掛けることを考えるばかり。他の方法を何も考えない。他人の言うことを受け入れない。困ったことに、伊地知は砲兵の心得があるばかりにその知識を超える状況はすべて却下する。総攻撃に間に合わせること、日にちどおりに攻撃を行うことが大事で情報を得て推理して殲滅する方法をまったく考えない。いや、考えられない。原発事故でもそうだが、専門家が事態を超えた、まさに想定外の出来事が起きたときにまったく役に立たず、結果的に責任逃れに終始する。まあコンクリートの要塞もフクシマのメルトダウンも今まで日本が経験しなかったことだから同情の余地はあるが、専門家があらゆる事象を考えて進まない限りことは成就しない。そして、困ったとき、フクシマでは放射線が漏れる中を決死隊を募りベント弁をあける作業を強いることになり(構造上電源喪失したら手動であけるしかない仕組みが問題)、旅順では防御壁にひたすら兵隊を突っ込ませるだけに終始する。日本はいつも、人的補償であがなうことですべてをこなそうとする。近代建築は人間が最終的に手を下すようになっては手遅れのことが多い。なるべく機械の仕組みをわかりやすくして、死を覚悟して行う状況を限りなくゼロにしなければならない。決死の覚悟で行うことは美徳であっても、救いにはならない。
日本は旅順で滅びるかもしれない、そんな予感を誰もが持ったという。兵力を消耗するばかり、無益な自己判断に固執するリーダーによって敗戦と植民地化の恐怖がちらつく。ロシアの圧倒的な兵力と国力の前に日本は勝てるのでしょうか?