禁煙と喫煙失敗の違い。 | 禁煙成功より喫煙失敗

禁煙成功より喫煙失敗

禁煙をしたくない人でも、タバコをやめられるかもしれない。
少なくとも一人はいましたから・・私ですけど!(^^)!

禁煙とは、

仏教で譬えるなら、難行道。

 

喫煙失敗とは、

易行の道であるということを前回お伝えしました。

 

この二つの道、では何がどう違うのか、といいますと

問題にする対象が違うという事です。

 

難行道の仏教は、私たちの欲や、怒り、そねみねたみの愚痴と言われる煩悩を難行苦行により

何とか無くそうとする教えです。

一言でいえば、煩悩を苦しみの元であると断定し、

それを断ち切ることによって、本当の幸せになろうということです。

確かに、欲や、怒りや、愚痴が減ったりなくなったりすれば、どんなに幸せに成れるだろうかと思います。

しかし、現実には、私たち人間は「煩悩の塊」であると仏教で教えられていますので、

減らしたり、断ち切ったりすることはできません。

あくまで、欲や怒りなどが噴き上がったときに、

それを修行により抑えることしかできないのです。

医療で言えば「対症療法」ということになります。

 

禁煙とは「対症療法」ですので、吸いたい気持ちが起きた時にどうするか、

どう抑え、喫煙という行動に走らないようにするかを教えられるものです。

そして、ニコチンという物質をどうにかして、体内からなくすことを一番の目的としています。

しかし、ニコチンが再び体内に入ってしまえばまた喫煙が始まり、元の木阿弥となるのです。

 

それに対して、

易行道の仏教とは、欲や怒りや愚痴の煩悩を持ったままで、

本当の幸せになる道を教えられています。

それは、私たちを「煩悩の塊」と見抜かれて、

それをそのまま、本当の幸せにするという約束をされている

阿弥陀仏という仏様の力で、この世は、世の中一番の幸せ者になり、

死後、仏の覚りを開くことができる教えです。

易行道の仏教では、苦しみの元は、

その阿弥陀仏という仏様の約束を疑う心一つであると断定されています。

 

例えば、

難病で苦しんでいる患者がいたとして、

その患者はやがて亡くなってしまいます。

しかし、その難病をたちどころに治す薬が存在していたのですが

その患者が、その薬を疑って飲まないまま、亡くなったとしたらどうでしょう。

 

たしかに、難病が原因で亡くなったということもいえますが、

治す薬があったのですから、それを疑って飲まなかったということが

患者が亡くなった一番の原因だといえます。

 

煩悩があるままで助けるお約束をされている仏様がおられるのに、

その約束を疑って煩悩を苦しみの原因だと問題にしている状態は、

疑って薬を飲まずに苦しんでいる患者の様なものです。

 

喫煙失敗は、ニコチンを問題にするのではなく、

ニコチン依存症などは大したことはない、という事実をありのままに伝え、

ニコチンが体内にあるまま、もっと衝撃的なことを言えば、

タバコを吸いながらでも、「私はタバコを辞めました」という事が言える、

常識外れな、タバコの辞め方です。

 

たとえ体内にニコチンという物質が存在していても、

「ニコチン依存症」という情報によって、その力が増幅されなければ、

続けて吸う必要は全くなくなります。

 

ニコチンという物質を問題にし、対症療法で禁煙を続けるか

それとも、ほぼすべての人々が鵜呑みにしている

ニコチン依存症という情報を問題にし、それを無くしてしまうか

その情報を無くせば、ニコチンがいくら体内に入ってきても、

喫煙者に戻ることはなくなります。

対症療法に対して根本治療であるといえましょう。

禁煙と、喫煙失敗の違いは、何を原因とし、何を無くそうとするかの違いであり

対症療法と、根本治療の違いでもあります。

 

しかも禁煙は続けなければなりませんので時間がかかりますが、

情報を疑い無くすことは一瞬で出来ますので、タバコを辞めるのに本来時間はかからないのです。

 

喫煙失敗への道はこちらから。