人生の目的(とは何か?)なんて本をよく見かけます。
こーいう問題を本気になって考えますと、中には「不可解」なんて言って日光は華厳の滝に飛び込むような方も出てきます。
思うに、物事、あまり突き詰めて考えてもいけないのではないか。
儒教などでも中庸(ちゅうよう ー ほどほどに)なんて言いますしねえ。適当でいいんじゃないか、と。
尊敬する高田純次先生
初代 適当男 植木等大先生
とはいいましても、人生の目的なんて大それたものではなく、生きてゆくにあって、自分自身の心を磨き、鍛えるということ、いわゆる精神修養、精神鍛錬というものは必要でしょう。
そうでないと、長い人生のどこかで折れてしまうことだってあると思います。
あっしの大好きなレイモンド・チャンドラーの小説の一つである『プレイバック』の中で、主人公である冴えない私立探偵のフィリップス・モーロウが女性に、「あなたって、やさしいのね」なんて言われて、返す言葉が最高です。ハンフリー・ボガードに言わせたらシビレますねえ。
ハンフリー・ボガード
男はタフでなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きる資格がない
一度でいいから、こういうセリフを言ってみたいものです。
生憎、これまで、そういうシチュエーションはまったくありませんでしたが。
だいたい、女性から「あなたってやさしいのね」なんて言われるような性格でもないことは自分でもわかってますし。
タフたって、打たれ強いボクサーのようなことではなく、心の強さのことでしょう。これを鍛えなきゃいけません。
そのためにも修行が必要なのです。
して、では、どのような修行をすればよいのか。
読書、瞑想、座禅、あるいは柔道、剣道、弓道、茶道、華道といった「~道」とついたものをきわめてゆくとか。
いっそ、巡礼の旅に出るとか、四国遍路をするとか。
いや、いや、むしろ日常生活の中にあってさえ修行は可能なのだと、曹洞宗の祖である道元は説いております。
道元が中国に留学していた時、ある寺の老僧が夏のクソ暑い昼下がりに庭でせっせと椎茸を並べて干していたのだとか。これを見た道元が、汗だくになって働く(※ 作務と言います)姿に同情し、「若い僧にやらせたらどうか」と声を掛けると、この老僧は「それでは自分の修行にはならん」と突っぱねたのだとか。
このことに道元は深く感動し、日本に帰ってからは「日常生活のすべて、これ修行」と弟子達に説いたとされます。
掃除をするのも修行、食事をするのも修行、風呂に入る、排便をするのでさえ修行(!?)という徹底したものだそうです。
永平寺における修行僧の掃除(作務)
そう考えるなら、何だって、いっそどんなに辛く、苦しい仕事だって修行と考えることもできるでしょう。
仕事ではなく修行と考える。こうなれば精神鍛錬です。
思えば、あっし自身も、銀行の集金業務で働く中、この道元の教えのもとに頑張っておりました。
雨にも負けず、風にも負けずで、豪雨だろうが、台風が来ていようが、雪が降ろうが、雨がっぱを身につけ50ccのスクーターにまたがり、脇を走るトラックなんかに跳ね飛ばされそうになりながら、強風に吹き飛ばされそうになりながら、雨にびしょぬれになりながら、いっそ雨か、自分の涙かわからないような状態で顧客の所へと回っておりました。(※ そういう意味では郵便配達員の方といい勝負ではなかったか、と)
雪道では何度か転倒もしました
これもまた修行だと。
ささやかながら、これでも、あっしもまた日本経済の底辺を支えているのだ、と。
しかし、まあ・・・、これは最初のうちだけで、そのうちに要領を覚え、そういう日は、うまいこと理由を付けて社用車(自動車)を使うとか、適当にサボって喫茶店なんかでコーヒーを飲んでましたが。
中庸の精神というか、適当、というか・・・。
(・・・・・・、おい!)