まず、四国八十八カ所の霊場(寺)を回る遍路ですが、他の霊場巡りの場合は巡礼といい、こちらは寺だけではなく神社も含まれるようです。また、特に観世音菩薩が衆生を救済するという信仰にあやかって三十三カ所の霊場が定められ西国三十三観音の巡礼もよく知られております。
木曽(長野)御岳山の巡礼
して、遍路といえば弘法大師・空海にゆかりのある四国の寺八十八カ所を巡るものに限られます。
この「遍路」は、もともとは「辺路」であり、さらに遡ると、その読みは「へんろ」ではなく「へじ」と言ったのだとか。平安期には既にこの四国の霊場をめぐる修行僧の話が『今昔物語』にあり、そこでは「辺路(へじ)」とあるのだとか。さらに年を経て作られた『梁塵秘抄』では、この「辺路(へじ)」が「へんろ」に言い換えられたのだとされます。
「辺地(へじ)」とは、今では「へんち」、そして類語として「僻地(へきち)」がありますが、人里離れた辺鄙な場所という意味でしょう。
して、恐らくは仏教伝来以前には既に、こういった辺地、あるいは山々を歩き回る修行が行われていたのではないかと思います。
後のその流れと仏教(密教)が融合し修験道という独特の信仰(宗教)も生まれております。釈迦自身も野山を歩き回る修行を行たっとされ、『法華経』などにあっても、そのような修行の重要性が説かれているともされます。
最澄なども、都を離れ比叡山にて修行をおこなっておりますし、空海も高野山に拠点を置いております。
高野山に行くなら南海電鉄で (※ 南海電鉄から金はもらってません)
ついでながら四国には石鎚山という修験道の霊峰(修行場)もあります。
恐らくは、そういった民間信仰的な霊場に仏教が寺を作り、それを四国に生まれ、若い頃はそういった幾つかの霊場で修行したとされる弘法大師にあやかって今日のような形になったのではないかと思います。
四国八十八カ所の寺を見ましても、その大半は空海の興した真言宗のものですが、中には天台宗、曹洞宗のものもあり、さらにその開基の多くは弘法大師となっておりますが、行基や修験道の祖とされる役小角(えんのおずの)などのものもあります。
では、その弘法大師空海とはどういった方であったのか、といいますと、これがなんともよくわからない、というか、あまり知られていないというべきでしょう。
あっし自身、「空海 ー 真言宗 ー 高野山金剛峰寺」ぐらいの、これだけ覚えておけば合格可能(?)ぐらいの知識しかありませんでした。
後に、仏教に関心を持つようになり、例えば悪人正機を説き「僧に非ず、俗に非ず」という親鸞とか、座禅を強調した道元とかは、まあ馴染むことができましたが、最澄とか空海ともなりますと、はてさて、この方々は何をしたのか、どんな業績を残したのか、今でもよくわかっておりません。(※ 極楽往生を説いた法然はまだしも、日蓮という方も・・・、やっぱりよくわかりません)
やっぱり・・・?
この空海、既に書いておりますが、むしろ弘法大師という方が馴染みがあり、「大師」という号を冠した僧は他にもおりますが「大師は弘法に取られ」なんてことも言うようですが、大師と言ったらやはり弘法大師であり、空海なのでしょう。
ちなみに、「尊師」といえば、この方でしょう。
故・麻原彰晃
しかし、この方の生涯をたどるに、例えば行基、一遍、法然、空也、日蓮といった方々のように、一般民衆の中に入ってゆき説法を行ったなんてことはなかったようですし、つまるところ、一般民衆との接点がほとんど何も見えてこないのであります。
それでいて、日本各地にはこの方の伝説が数多くあり(※ 5,000以上もあるのだとか!)、一般民衆からは「弘法さん」、「お大師様」などと慕われていたという事実は何を意味しているのか。
もしかしたら、日本で最も慕われている坊さんかもしれない。
弘法大師に基づいた有名な伝承(※伝説?)に、水に不自由していた土地に、大師がやって来て井戸を掘ってくれたり、清い水の出る泉を湧かしてくれたというものがあります。「弘法池」、「弘法井戸」さらには、温泉まで掘り当ててくれたということで「大師の湯」なんてものまであるのだとか。
奈良にある弘法井戸
その一方で、旅の途上にあった大師が、通りかかった家の庭にあった梨の木の実を所望したところ、家人が「この梨は苦くて食べられない」と嘘を言ったところ、以来、本当に苦くなってしまった、なんて話もあります。
あっしの実家の庭にも渋柿の木がありますが、元々は甘い柿だったのに、御先祖様がこれを所望した大師に「渋い」と言って、本当に渋くなってしまったのか。
ったく、うちの先祖もロクなことしやしねーな
まあ、根拠はありませんけど。
他にも寺院の開基や、仏像の製作、鉱山や温泉といった話も多いとされます。
しかし、空海自身の足跡からして、このような話はまずもって根拠が薄く、恐らくは中世、日本全国を勧進してまわったという聖(ひじりー 高野聖)によるものが、後に弘法大師のものとなったとされます。
つまるところ、その名前は、こういった空海の弟子というか、その後継者によって広められたのでしょう。
また、喜捨を受けながら旅をしつつ、その土地の人々に大師の教えを説き、無縁死者がいればこれを供養したとされますから、彼らこそがもっと評価されていいと思います。
「仏(ほとけ)を信心すれば、いいことあるよ」なんて説いて回っていたと思われ、こんなふうにして一般民衆の中に根を下ろしていったのでしょう。