あやしいキリスト教 イエスをどう描くか 慈悲深き神の子 喧嘩上等の怒れる男 大飯食らいの酒飲み  | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

慈しみ深き 友なるイエスは

 

罪、咎(とが)、憂いを消し去り給う

 

心の嘆きを包まず述べて などかは降ろさん 負える重荷を ♪

 

 

 

あっしが、キリスト教の児童洗脳システム・日曜学校で習った讃美歌(聖歌)です。

 

 

 

続いて、たまたまネットにあったキリスト教の児童向けの本の写真です。

 

 

 

 

なんとなく、オウム真理教の教団制作のアニメに登場する麻原尊師のような顔をしてます。

 

 

 

 

参考までに 麻原尊師(イケメンです)

 

 

 

※ 写真はイメージです」ならぬ「※ 絵はイメージです」とでも書き添えて欲しいです。

 

ハンサムな男に描きたいという気持ちはわかるんですが、麻原尊師と同じく、実際のイエスはこんな好青年であったんでしょうか。

 

 

 

復元された(?)イエスの顔とされるもの

 

 

 

 

絵もそうですが、イエスの言行録とも言うべき福音書も、比較的、史実に忠実だとされるマルコ書は別として、マタイ書やルカ書、ヨハネ書に描かれるイエスは少なからぬ脚色があるように思います。

 

 

神の子」「メシア」なんてものにされてますから、そもそも神の子、メシアにふさわしい言葉や行動をしていたのだ、としたかったのでしょう。

 

例えばマタイ書では、イエスが洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けたいと言うと、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」なんてあります。これだと、ヨハネは、それこそイエスを神の子として認識しているということにもなるでしょう。

 

(※ マタイが参照したとされる、もっと古いマルコ書には、そんな記述はありません)

 

 

 

以下、田川建三『イエスという男』の「イエス叙述の方法」という章に沿って考えてみます。

 

 

まず、

 

一人の歴史的人物をどう描くかは、とどのつまり、その人が生きていた歴史の場をどうとらえるかという問いに帰着する

 

 

とあります。

 

 

確かにそうでしょう。イエスならイエスの言葉も、イエスが生きていた当時のユダヤ社会の中で発せられたものでしょう。

 

イエスが時代や社会を超越した普遍的真理なんてものを説いていた、とは考えにくいのであります。

 

 

例えば、ルカ書にある「貧しい者は幸いである」と言った時の「貧しい者」は、あくまで当時のユダヤ社会の、その大半が貧困層であったという人々を指しており、「昼飯は毎日、駅の立食いそば屋のカケそば。たまには天ぷらそばが食いてーなー」なんていう、時代は2000年の時を超え、ユダヤ後とは遠く隔たった日本の、低所得労働者ではないのであります。

 

 

そもそも昼食が食えるだけでもいいのであって、当時のユダヤ社会の「貧しい人々」は、今日食べるパンにも事欠いていたような人々なのであります。

 

 

キリスト教会などの説教では、こういったギャップを無視して、強引に、イエスは、いつの時代、どこにあっても通用する神の言葉、普遍的な真理を説いていたのだよ、なんて言っているのであります。

 

 

そもそも、イエスが、そんな普遍的真理なんてものを説いていたとは考えにくいですし、まして、後に自分がキリスト教なんて、イエス自身からすれば、わけのわかんねー宗教の教祖様に祀り上げられていく、なんてことは思ってもいなかったはずでしょうからねえ。

 

 

 

田川センセは続いて、

 

 

イエスを客観的かつ正確に描いているようでありながら、実は自分の姿をそこに投影するだけである

 

 

 

なんて言っております。

 

鋭い指摘であります。

 

 

釈迦の弟子達、及びその末裔達は、釈迦の死後、それこそ何十年もたってから「オレが思うに、釈迦はこんなことを言いたかったんだと思う」なんて書きだして、それぞれが自身が考える、と言うか解釈した釈迦の教えなるもの()を幾つも書いておりますが、そして皆、自分こそが唯一正しい釈迦の教えを受け継いだ者だ、なんて言っていたようです。

 

 

同じく、中国は『荘子』に郭象という方が注釈書を書いておりますが、そして、これが最古の注釈書とされますが、実際はこの郭象自身の哲学思想を押し付けたものだと批判されております。

 

 

 

難しいですねえ。

 

日本の宗教者で言いますと、例えば平安から鎌倉時代にかけての最澄、空海、法然、親鸞、日蓮といった方の名を冠した本が幾つもありますが、それぞれ、その本の著者の捉えた、解釈した親鸞なら親鸞というものになるのでしょう。

 

 

 

しかしながら、田川センセは続けて言います。

 

 

福音書研究はずば抜けて精密化されており、実際にイエスが語ったであろう言葉もかなり正確にたどることができるとしております。

 

 

問題はその内容をどう理解するか、なのだとか。

 

 

先に、マタイがマルコ書に書かれていたものを、脚色している、書き換えているとしましたが、聖書研究者たちは、そういう言葉を一つ一つ精査し、恐らくはイエスの言葉はこういうものだったのだろう、というもにまでたどり着けたのでしょう。

 

 

して、今度は、それが、どんな状況にあって、誰に対し、どのような意味で、どのような言い方としてなされたのか、なんてことになりますと、これはもう推測するしかないわけで、ここで意見が分かれるのということなのか。

 

 

なお、ここで、各福音書の成り立ちを田川センセが説明してくれております。

 

 

イエスの死後、いや生前から、イエスに付いての口伝、伝承、言い伝え、噂話というものが様々に伝えられ、様々に変化し、あるいは脚色や創作なんかもされて、それがイエスの死後20年以上もたって二つの文書にまとめられたのだとか。

 

 

脚色や創作ということでは、マリアの処女懐胎に始まり、イエスの生誕、さらにはイエスによってなされた奇跡、つまり病気治しや死んだ人間を生き返らせる、少量の食べ物で多数の人々の腹を満たす、嵐を止める、湖の上を歩く、きわめつけは死んだはずのイエスが復活した、なんて話がそうでしょう。

 

 

講釈師、見てきたような嘘を言い」ではありませんが、こと、マタイやルカの書いたものは、あまり信用できません。

 

 

 

さて、二つの文書のうち、一つがマルコ書で、もう一つはイエスの語録集というようなもので、現存はしていないものの、そういうものがあったであろうとされております。これを「Q資料」と言うそうです。

 

 

マタイ書とルカ書は、マルコ書ができた後、30~40年後に、マルコ書とQ資料、さらには、それぞれマタイとルカは独自の資料を用いてそれぞれの福音書を書いたとされます。

 

恐らくは他にも、こういった伝承が幾つもあったのでしょう。

 

 

なお、ルカは、パウロの協力者であり「使徒行伝」を書いた人物と同じだともされますが、マタイは何人かの共同作品だとされます。また、恐らくはイエスの直弟子達が始めたエルサレム初期教会グループに近い人々であったともされます。

 

 

マルコ書だと、イエスの弟子達はボロクソに言われておりますが、マタイ書では、立派な人間として書かれております。

 

 

このようにして書かれた福音書から、実際にイエスが語ったであろうと考えられるものを復元するというのですから、これは大変なことでしょう。

 

いかに客観的に、それこそ、あるがままのイエスを描こうとすると、どうしても抽象的なものになってしまう、と田川センセは言います。

 

かと言って、いろいろと推測しながら描こうとすると、どうしてもその描く方の主観が入り込んでしまうのだとも。

 

 

 

どーしたらいいんでしょう、ってもんです。

 

 

注意すべきとするなら、研究者にはクリスチャンという方も少なくなく、こういう方はどうしても「神の子」という先行する認識から、どうしてもキリスト教の理念の方向にもってゆきやすい、なんてことを田川センセは言っております。

 

まあ、そうでしょう。イエスを、ただ、歴史上の人間として捉えるか、神の子として捉えるかで、その言ったとされる言葉の意味も微妙に違ってくるのでしょう。

 

 

ここであえて言えば、イエスは当時のユダヤ社会に反旗の狼煙をあげたのであって、それがゆえに、そのユダヤ社会から抹殺されたのでありますが、キリスト教ですと、これはパウロの「イエスは自分達のために犠牲となって死んでくれた(贖罪)」ということになってますから、イエスの言ったとされる言葉の意味も異なりかねない。

 

 

 

ったく、パウロの野郎はよけいなことをしやがって、ってもんです。

 

 

イエスという人を知る、というのも大変なことなんですねえ。

 

 

 

 

ちなみに、あっし自身の、極力主観的なイエス像と言いますと・・・。

 

 

 

 

 

やっぱり、大酒飲みの大飯ぐらいで、喧嘩上等、「売られた喧嘩は買うぜ」というキレやすいオッちゃん、というものなんですがねえ。