まず、ずっと以前に、『太陽』という写真雑誌がありまして、そこに載っていた話であります。
世界各地を旅する写真家の日本人が訪れた南米はペルーの山岳地帯。そこを走るポンコツ鉄道が舞台です。
ペルーのインディオの人々の市場
手違いがあって、手にするはずだった金が得られず、その目的地に行くには丸二日間、飲まず食わずの旅となんてしまうも、仕事は仕事として、この一帯の人々の生活風景をカメラで写しておりました。
いわゆるインディオと呼ばれる原住民の人々の生活は貧しいも、みな底抜けに明るい笑顔をしているのが印象的であったとか。片言のスペイン語で話は通じ、なんとか打ち解けるもの。
他にこれといった交通手段もなく、人々はこの鉄道を使って村と町を何日もかけて移動していたようです。
して、丸二日間もいっしょに乗り合わせていれば、お互いの行動もよくわかる。
そんな中、この日本人は一回も食事をしていないぞと、ヒソヒソ話す人々も出てくる。
と、突然、人相の良くない、思うに、この辺りによくいる違法に国境を越えて闇物資を売りさばくブローカーではないかと思っていた怪しげな男が、突然、車内で立ち上がって演説を始めます。
おい、みんな。この日本人は、みなも知ってると思うが、この二日間、何にも食っていないぞ
日本人てのは、みな金持ちだと聞いていたが、こいつは、どうも金がない奴に違いない
どうだい、みんな。ここはひとつ、みなで金を出し合い、こいつに何か食べさせてやろうじゃないか
そう言って、その男は自分が被っていた帽子を脱ぐと、まず自分でいくばくかの金を入れ、それを持って車内をまわります。
なんせ、食事といっても、その多くがトウモロコシの少し入った薄いスープしか食べていないような貧しい人々でありますが、それでも、みな僅かとはいえ少しづつ金をだしてくれます。
そして、その集まった金を、この写真家に差し出す男。
写真家は、自身は決して貧しいわけではなく、たまたま手違いがあって金を持っていないだけのことで、こんな貧しい人々からのなけなしの金は受け取れないと思ったものの、心の底から温かいものがこみ上げ、みなのその好意に感謝し、すなおに受け取って、この男にお礼の言葉を言うと、男は、
お礼は神様に言ってくれ
と答えたのだとか。
あっしが大好きな話です。
そうか、神様が助けてくれたんだ、と。
世の中、捨てたもんじゃない。ちゃんと神様はいるんだなー、と思いました。
もう一つ。
これはマザー・テレサが言っていたことだったと記憶しております。
マザー・テレサ
貧しいホームレスの女性に、僅かな食べ物を差し出したら、彼女はお礼を言うと、それを自分だけで食べるのではなく、他にいた同じような人々に、さらに少しづつ分け与えたのだとか。
そうしろと、彼女は言われたわけではなく、自ら進んでそうしたということ。
テレサはこれに感動したと言います。
貧すれば鈍するなんて言いますが、人間は必ずしもそうなるわけでもないように思います。
して、こういった助け合い、支えあいというもの、とかく美談、倫理道徳規範として捉えられるように思いますが、しかし、これ、人間が生きてゆく上にあっての、より適切な生存戦略ではないかと思います。
よく「情けは人のためならず」なんて言いますが、して、これを利他的行動なんて言いますが、自分の利益にならない、いっそ不利益となることも省みず、他者を助けるという行為は、もちろんその他者は利益を得ますが、長期的、巨視的な視点で考えますと、助けた当事者のほうもまた、相応の利益があるように思われます。まあ、その可能性が高いというべきでしょうが。
まず、助けてもらった相手が、恩を感じて、逆の立場になったらお返しをしてくれることが考えられます。これを互恵性なんていいます。
次に、周囲の社会的評価がたかまり、それが助けた方に有利に働くと思われます。人間社会において、こういう評価は、その人が生きてゆく上にあって極めて有益なものだと思います。
さて、人間の行動を方向付けるものとして、もちろん、我々の主体的な意志というものもありますが、同時に、もっとずっと生理的な、いっそ感情に基づくものがあるように思います。
脳の働きで言いますと、前者は新脳とも言える、大脳新皮質と呼ばれる部位のもので、後者は旧脳とも言える、大脳辺縁系にものでしょう。
『フーテンの寅さん』の、寅さんのセリフに、
頭じゃわかっちゃーいるんだが、心が付いてゆかないのよ
というものがありますが、まさに、このことを意味していると思います。
して、この「心」ですが、これは「感情」でしょう。いわゆる「気持ち」です。
そして、これには「いい気持ち」もあれば「悪い気持ち」もあります。
この「いい気持ち」は「快感」でしょう。
これは脳内ホルモンなんて呼ばれる、ドーパミン、エンドルフィン、セレトニンといった、別名、「脳内麻薬」なんて言われる化学物質の作用だとされます。
こと最後のセレトニンですが、癒しや幸福感を生じさせるとされます。
ペルーの列車の中で、写真家が「心の底から温かいものが込みあがって来た」と言ってましたが、まさにこういうものではなかったかと思います。
ついでながら、これまたインドであったか、アジアの貧しい地域で、貧しそうな男の子に食べものをあげたら、その子は自分では食べずに、この子の妹らしい小さな女の子に、食べ物を全てあげてしまい、その小さな女の子が、嬉しそうにこれを食べているのを、同じぐらいの嬉しそうな顔をして黙って見ていた、なんて話がありました。
インドの貧民街
他人から助けられても、温かいものが込みあがってくるものですが、逆に他人を助けても、同じように心が温かくなる?
考えてみれば不思議です。
実際、こういうことは我々の誰しもが経験のあることだと思います。
とりたてて、特にその相手のためにと思ったわけではなかったのに、自分の行為によって、その相手がすごく喜んで、感謝してくれると悪い気はしませんし、なんだか自分までうれしくなったりもします。
これを「ごほうびホルモンのせいだ」なんて言った方がいました。
それこそ、先に上げたセレトニンなんて脳内麻薬が分泌されたんでしょうか。
さて、利他的な行動は、つまるところ、自身にも有益なものとなる可能性が高いと書きましたが、我々人間は、意識することなく、つまり無意識のうちに、こういった行動を進化発達させてきたのではないかと思います。
少なくとも、そういう行動をしない者よりも、そういう行動をした者の方が、人間集団、人間社会のなかにあっては高い評価を得て、より優位な立場になれるように思います。まして、いざとなれば、他者から援助の手が差し出される可能性も高いはずです。
利己主義的な人間では、その可能性も低いはずです。これは、まあ自業自得というものでしょう。
こう考えてきますと、利他行動、つまり積極的に他人を助ける、援助の手を差し出すというのは、逆説的に自己にとってもきわめて有益なものであり、まさに人間はこのような行動性を進化発達させてきたのではないかと思います。
いっそ、生きてゆく上にあっての高度な生存戦略、手法ではないかと思いますねえ。
「他人を助けろ、援助しろ」なんてことを、倫理道徳、規範として強制しなくても、賢い人間(!)は、自らの利益のためにも、無意識のうちに、そのように行動している?
そうではない、つまり、あんまり賢くない人間には、この、人間が長い時間をかけて進化発達させてきた「智恵」を、その方が自分にとっても有益なんだよと教え込むしかない?
そう言われてみますと、確かに、他人のことを思いやるような方は評価が高いです。「いい人」、「善人」なのであります。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』に出てくるような方です。
それに引き換え・・・。
だめですねえ、あっしは。
仏僧に対し、お布施を拒んだがゆえに長者の蔵が空を飛んで行ってしまう 『信貴山縁起絵巻』
「他人の不幸は蜜の味」、「あなうれし、他人の蔵が売られてゆく」なんて、すぐ思ってしまう人間ですから。
あんまり賢くない人間です。