厳しい倫理道徳を求める厳格な宗教者としての洗礼者ヨハネ。
『イエスという男』を書いた田川建三センセの言葉に従えば「彼の行くところ、春の青草も枯れて、なぎ倒される雰囲気がある」という方であります。
徹底した禁欲は、それこそ厳しい修行を行っていて、ついには骨と皮にもなってしまったような悟りを得る前の釈迦をも思い起こさせます。キリスト教、仏教、さらにはどんな宗教にもに関わらず、宗教的な倫理的厳格さを求めるならば、まさにこのヨハネのごとくになるのでしょう。
神殿祭祀に明け暮れ、そこで得られた富の上に胡坐をかいているようなサドカイ派、あるいは律法遵守を説き、それができないような人々(※ その多くは貧乏人)を厳しく非難し「罪人」などと蔑むパリサイ派。
なんで、そんな連中だけが救われて、日々の生活にあえいでいるような一般民衆は救われないというのか。
そんなことはないはずだ。日本国憲法だって「法の下、みな平等」というではないか。神の支配の下、みな平等なはず。
そして、たとえどんな人間であれ、祭司だろうが、厳格なラビ(※ 司祭、説教師)だろうが、何かしらの汚れ、心に疚しいことをもっているもの。イエスだって、「よこしまな心をもって人妻を見た者は、もうそれだけで姦淫したのと同じだ」なんて言ってるじゃないか。
叩けばホコリが出る。これが人間だ。人間は誰しも汚れ、罪深い存在なのだ。
だからこそ、神の前にあって恥じることのないような生き方をしなくてはならない。罪を洗い清めなくてはならない。
さあ、皆の衆、悔い改めろ
その罪を水で洗い流して清純になれ。
そこの・・・、他人事のように傍観者づらしている、ねずみ男みてーなオッサン。あんたもだ。
と、まあ、これが洗礼者ヨハネの説いていたことなのでしょう。
して、その批判はユダヤの国の為政者であるヘロデ王の信義にもとるよーな女性関係(※ 他人の奥さんを奪ってしまう)にも向かったのであります。
王だから、権力者だからと言って、倫理に反し好き勝手なことをしていいわけがない。まして、上に立つ者は、自らの生き方こそを人々に範として示すべきなのに、なんとも情けない。
これを、陰に隠れてヒソヒソと言っているのではなく、公然と、それこそ堂々とまくしたてたのではないのか。
ヘロデ王としては、とーぜん、おもしろくない。
それと同時に、彼は当時、絶大な人気を持っていたらしいヨハネを、むしろ社会に混乱を引き起こしかねない扇動者として捉えます。また、当時、ユダヤ社会にあっては罪の赦しを得るためにはエルサレムの神殿まで行き、そこで神に捧げものをして清めの儀式が必要とされていたとされます。それも、その都度、そういう儀式が必要とされてもいたようです。
ユダヤ教大祭司
手間ひまもかかるし、金もかかる。エルサレムから遠く離れた地にいる人々にとってすれば、そこに行くだけでも大変なこと。
しかし、これをやらないと不信心な者、罪深い者にされてしまう。
ところが洗礼者ヨハネが言うには、「たった一回、洗礼を受けるだけでいい」と。
こうなると、神殿を統括するユダヤ教支配層(サドカイ派)もまた、おもしろくない。
あの野郎、勝手なことをほざきやがって
こちとらの商売を邪魔するつもりか
と、ヘロデ王に圧力をかけた?
まあ、かけなくても両者の思惑は一致しておりますから、結局、ヨハネは捕らえられ、ついには危険分子ということで処刑されてしまいます。
ちなみに、ヘロデ王の再婚者であるへロディアの連れ子であるサロメが、巧みな踊りの褒美に、母であるヘロディアにそそのかされてヨハネの首を所望させたというのは作り話だろうと、田川センセは書いております。
クラナッハ 「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」
まあ、話としては面白いんですけどねえ。
さて、洗礼と言いますと、これはもうキリスト教の最大の儀礼のように思われておりますが、そもそも、これを行っていたのはヨハネであり、イエス自身もやったのかもしれませんが、それをことさら重視したわけでもないようです。なんせ、福音書には特に何も書いてありませんからねえ。
次に「悔い改め」と「罪の赦し」ですが、これまた、ヨハネが口にしていたもので、マルコ書ではイエスもまた当初は口にしていますが、その後は特に口にはしていません。
つまり、これらは洗礼者ヨハネの主張であったのであり、当初こそ、イエスはヨハネの主張に共感し、これを受け入れていたようですが、後には特にこれを主張しているようには思われません。
ただし、ルカ書では、やたらとイエスがそういったようにも描かれておりますが、これはルカの勝手な解釈ではないのか。
「自分は罪人を招くために来た」とか「自分に罪などないと思う者から、この姦淫した女に石を投げろ」なんてイエスの言ったとされる言葉からすると、イエスはむしろ、そういった罪に対しては寛容なようにも思われます。
これは「善人なおもて往生す、いわんや悪人もや」と説いた親鸞の主張を思いこさせます。
ここでいう「悪人」は「犯罪者」ということではなく、「煩悩に苦しむ人」という意味のものでしょう。
そういう人だって救われるのだと。
イエスの言う「罪人」もまた、同じではないかともいます。
なるほど、洗礼者ヨハネの言うことは理想的なものでしょう。しかし、みな、彼の生き方を見習え、これを真似ろ、たってそりゃ無理でしょう。
律法遵守するべきなのだということはわかってはいるが、生きてゆくためにはそこで説かれているような厳格な生き方は、したくてもできない。生きてゆくためには、人の嫌がる、いっそ蔑視されるような取税人にだってならなくてはいけない。女性なら、生きてゆくためには己の身体を売るしかない、ということだってある。
あるいは、重い病気(※ ハンセン病?)になったのは、自業自得で、罪深いからだ、なんて言われていた人々などは、病気と、それに対する非難の二重苦にいたともされます。
それでも真摯に生きようとする人々。
こういう方々に、それこそ「悔い改めろ」なんて言うのは酷だろう、と。
むしろイエスは、例えば重い病人には「あなたの罪は赦された」なんて言ってます。逆です。
江戸時代の臨済宗の僧であった仙厓の句に、
よしあしの 中を流れて 清水かな
というものがありますが、親鸞も、イエスも、まさに「俗にあって俗に染まらず、俗に非ず」というようなスタンスであったように思います。
煩悩に苦しむ人間だって、やろうと思えばできないことではない?
外面的なものなんかどーでもいい。大事なのは内面であり、自身の生き方。
そーやって、必死に努力しているような人々こそが神に認められる。イエスの言う「神の国」に入るとはそういうことなのではないかと思います。
つまるところ、「神の国」は、クリスチャンになったら、死んだら行けるという「天国」なんてものではないと。
少なくともイエスの言っている「神の国」はですが。
後世のキリスト教は、それこそ、そんなイエスの説いたことんか飛び越えて死後のユートピアのようなものにしてしまってます。
まあ、そういって信者を多数獲得してきたんでしょうけどねえ。
そういう、いっそ無責任な、実際にあるのかどうかもわからないような幻想を目の前にちらつかせて、教団の拡大を図る。
イエスの説いたことを広めるよりも、教団を大きくする方が優先され、その方が目的となってしまっている?
なーんて言ってますと、また、「あいつはキリスト教を冒涜している」なんてねえ。