あやしいキリスト教 洗礼者ヨハネの主張 悔い改めねーと、おめーらみんな地獄行だ!そこのお前もだ | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

キリスト教における洗礼者ヨハネの立場は、イエスに先行する者、いっそ露払い的な存在であります。

 

 

 

横綱の土俵入りにあっては、太刀持ちと露払いが控えております

 

 

 

して、その露払いとは何かと言いますと、高貴なお方や神様などを先導するものとされます。元々は草原などを集団で行くとき、一番先頭に立ち、草や木を手足でかき分けて行く者を言いまして、露に濡れることもあるからこう呼ばれたとか。

 

水たまりがあったら、自分の着ているもので覆ったり、いっそ自分がそこに横たわったりして、その上を高貴なお方に歩かせた、なんてこもあったのかもしれない。

 

 

 

あるいは高貴な方々の一行が通る場合、先頭にいて、

 

 

 

ほらほら、どいたどいた。~様のお通りだぞ。道を開けんかい、こら

そこの、ねずみ男みて―なオヤジ。お前だ、お前

 

むさくるしいから、後ろに隠れてろ

 

 

 

 

なーんて言っていた方なのでしょう。

 

 

しかし、そもそも洗礼者ヨハネは、イエスの露払いなんてものではなく、あくまで一人の思想家(宗教者)、そして最後の預言者であったとされます。

 

彼自身、人から「メシアではないのか?」なんて思われていたこともあったようですが、これは自ら否定しております。

 

 

 

では、預言者とは何かといいますと、文字通り「神の言葉を預かり、伝える者」ということでして、宗教学的にはシャーマン(霊能者、祭司)と言っていいでしょう。

 

シャーマン自体はユダヤに限らず広く世界に見られるもので、日本なら卑弥呼がそうであったと考えられます。天皇も、もしかしたらシャーマンというべきか。沖縄の霊能者ユタもそうでしょう。

 

 

なお、青森のイタコは、神ではなく死者の言葉を預かる者であります。

 

 

 

また、天理教の中山みきなどもそうでしょう。

 

 

 

こういった方々は、神がかって、つまり神がこれらの方の肉体、口を借りてその意思を伝えるとされます。

 

あえて言いますと、こういった方々がそう思い込んで、場合によっては意識することなく己自身の考えを神が自分に語り掛けてきたものと解釈するのでしょう。「神の声を聞いた」なんて言うようですし。

 

 

ちなみに、精神医学的には、こういった方の場合、統合失調症、解離性同一性障害(多重人格)が疑われます。

 

 

 

幸福の科学 大川隆法(地球最高神?)

 

 

 

この方の場合ですと、守護霊なるものがメインであり、他にも宇宙人の霊(?)が、彼の口を借りて語るのだとか。

 

 

どーでもいいんですが、よく「神の声が聞こえる」なんて言っている方がいますが、あれ、どうして、神だと思う、というか、神だとわかるんでしょうかねえ。勝手な思い込みではないのか?

 

 

いっそ、タヌキやキツネの霊(悪霊?)が取り憑いたとは思わないのか?

 

 

 

自慢じゃありませんが、あっしは神ならぬ、天使悪魔が耳元で囁くような感じがすることはあります。

 

 

 

おまえさー、そーやってキリスト教をおちょくったことばかり書いてるが、

平気で天を仰げるのか?そんなことしてたら神に罰を受けるぞ

 

 

 

 

 

いい女じゃねーか。笑ってるよ。ありゃ、絶対お前に気があるんだよ

セクシーな服着てさー。ありゃ、誘ってるんだよ。声かけてみろよ

 

 

 

特に、悪魔の囁きなんかに耳を貸したが最後、どんな醜態をさらすかわかったもんじゃないですから。

 

君子、危うきには近寄らずです。

 

 

 

 

ねずみ男さんの意気地なし!

 

 

 

 

へっ!

 

 

 

 

えー、んな話ではなく、洗礼者(預言者)ヨハネであります。

 

 

先にも書きましたが、死海文書で有名になったクムラン教団の人々もまた、人里離れ、それこそ後の修道院の原型となったような禁欲的な生活をし、神に敬虔な祈りを捧げて生きていたようですが、ヨハネもまたこういう人々に共通するものがあります。

 

 

 

クムラン教団の修道院?

 

 

 

 

しかし、特にこういう方々が特殊というわけではないでしょう。

 

釈迦その人だって、そういう修行者でしたし、当時のインドにはそういった修行者も数多くいたとされますからねえ。

 

 

今だって、タイなどには敬虔な仏教の修行僧達がいるはずですし、日本なら曹洞宗の永平寺などでの修行僧、あるいは修験道の世界などを知るに、こういった修行者はいつの時代、どこにもいたと思います。

 

 

 

さて、ユダヤ教における預言者と言いますのは、思うに、先に上げました天理教の中山みきのように、ある日、忽然と神の声が聞こえたと思い込んだ(?)方々でして、その語る内容は、その時代におけるユダヤ民族、そしてユダヤ社会に対する批判であります。

 

ことイザヤなど、堕落したユダヤ民族、ユダヤ社会を辛辣に批判し、自分達に大きな苦難が降りかかってきたのも、これ全て自分達に原因があるのだとしております。

 

 

かつて、学生運動が激しかったころ、最も過激なグループにあっては、「総括」なんて言葉のもと「自己批判」することが要求されたといいますが、預言者の主張もつまりはそういうことであったように思います。

 

 

洗礼者ヨハネは言います(マタイ書)。

 

 

 

 

 

マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか

 

斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、

切り倒されて火に投げ込まれる

 

 

そこの、ねずみ男みてーなオヤジ。お前もだ!

 

 

 

 

えっ、あっしも!?

 

 

てっきり、あっしは部外者だと思ってたんですが。

 

天網恢恢、疎にして漏らさず、ですか?