『史録 日本国憲法』 憲法改正は、あくまで国務とする松本国務大臣と、勝手に駒を進める近衛公爵 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

アメリカという、連合軍の戦勝国の一つこそが、日本と深く関わり、あえて言えば日本という国をコテンパンに叩きのめしたのであります。

 

そして、日本を直接に占領し、それで日本なんて国を消滅させてアメリカの属州にならまだしも領土にしてしまう、なんてことはなかったのでありまして、そうではなく、侵略戦争を起こし、それが世界的な非難を受けると居直って、さらには、アメリカに喧嘩を振っかけるような国家体質を根底から変えなくちゃ危なくっていけないというのがアメリカの考えであったのでしょう。

 

 

そのことについて、連合軍の国にはソ連をはじめ、当事者である中国他、フィリピン、オーストラリアといった国々もあり「わしらにも口を挟ませろ」なんて声もあったようですが、主導権はアメリカが握っており、これを抑えていたようです。

 

 

ということは、新生日本の構築にあって、アメリカにとっての有益性こそが最優先されるのでしょう。

 

 

後の日米安全保障条約なんてのも、こりゃ、日本を含めた極東の安全というより、つまりはアメリカの安全のためのものと考えた方がいい。

 

 

 

 

60年安保闘争

 

 

 

 

とはいえ、それが日本の利益にならない、ということでもない?

 

 

なーんて丸め込まれたのか。

 

 

 

 

安保条約を締結した岸信介(※ 安倍元首相の祖父)

 

 

 

さて、憲法とはその国の基礎法だと何度か書いておりますが、たとえ軍部の暴走があったとしても、それを止められなかったような日本の憲法の仕組みは、どうう考えても危なっかしくていけない。まして、その内容からして天皇を頂点に置いた封建的な遺制を引きずっているようなものはダメで、アメリカを範としての民主主義的な憲法のようにしないといけない、とアメリカは考えていたようでして、それがGHQ、ひいてはマッカーサーによって示されたのであります。

 

 

 

しかし、日本側、実質的には政府首脳、そして勝手に一人歩きしだした近衛公爵グループのいずれにおいても、そういったアメリカの希望が十分に理解されていたとは考えにくいものがあります。

 

 

まあ、あくまで自分の国の憲法なんですから、そしてそれはそれで良かれということで、今までやって来ていたわけですから、たとえ戦争に負けたからと言って、これを全面的に変えるなんて考えはなかったのでしょう。

 

 

 

誰しもみな自分にとって都合のいいように考えるものでして、近衛公爵も自分はマッカーサーから直接、憲法改正を指示されたと考え、政府首脳部もアメリカが、そこまで強く言ってくるはずはない、なんて楽観視していたことがわかります、

 

 

その政府首脳部は、松本蒸治国務大臣が先頭に立って憲法改正問題についての意見をまとめることとなります。

 

 

してその基本指針として、

 

 

 

・ (そもそも)憲法を改正する必要があるのか

・ 必要があるというなら如何なる点を改正すべきか

・ その改正はいかなるものとするか

 

 

 

ということであったようです。

 

 

ここで、気が付くのはGHQは「憲法改正をしろ」と言っているのに、政府首脳部はまず「改正の必要があるのか」という、まさに幣原首相の考えに沿っております。周辺諸法を改めれば、憲法そのものを変える必要はないのではないか、ということなのでしょう。

 

 

そして松本国務大臣が気にしているのが、近衛公爵が進めている改正案作成というものであります。確かに憲法改正は天皇の発議が必要なわけで、その天皇のために提言書のようなものを作ろうということは理解できないわけではないも、もし改正するとしても、あくまで政府が主導するのが筋というのが松本の考えだったようです。

 

 

もっとも、近衛公爵は、近衛公爵で、自らの思惑で動いているわけで、その大義名分はマッカーサーからの直接の指示と、天皇による勅命であるわけです。

 

 

そこで松本は、近衛公爵と首相官邸で会い、その考えを示します。近衛公爵の進めている案は、あくまで天皇に対する参考意見としてであり、非公式なもので、実質的な改正案作成はあくまで政府が行うとのだ、と。

 

 

近衛公爵は当惑した風情であったようですが特に返事はしなかったとされます。それで松本は、自分の考えが伝わったものと解釈します。

 

 

思うに、ここでも双方が自身にとって都合のいいような解釈をしていたのだと思います。

 

世の中、こういうコミュニケーションのギャップはよくあるもの。しかし、ことが憲法の改正ですからねえ。

 

 

 

最初のうちこそ微妙なズレですが・・・

 

 

 

このギャップは、後に大きな波紋を広げてゆくのであります。

 

 

その翌日の朝、松本は『朝日新聞』を広げ、そこに近衛公爵がアメリカの新聞記者との会見で「日本の(新しい)憲法は天皇からほとんどすべての大権を取り離す。そして立憲君主制を確立することをあきらかにするようになるかもしれない」と発言したという記事を見て目をむきます。

 

 

松本とすれば、まだ何の研究も調査もしていない憲法改正について、近衛公爵があたかも、それが決定事項のように言っているではないか、と。

 

むろん、近衛公爵がアメリカの新聞記者に会うのは自由で、そこで何を言おうと構わないとはいえ、それはあくまで公爵の個人的な見解のはず。

 

これでは、近衛公爵が首相経験者ということもあり、あたかも公式的なものとして受け取られかねないではないか。

 

 

して、近衛公爵がこのように発言しているとなれば、また、この記事は天皇自身も目にするはずで、ということは、天皇もまたそういう考えを持っている、というか容認しているということにもなる。

 

 

それに対し、政府としてはまだ何の公式見解もしていない。それはつまり、政府は憲法の改正に消極的であることを示すものとなってしまう。

 

 

近衛公爵、そして宮内省側のスタンドプレーか?

 

松本はそう考えます。

 

 

 

さて、一方の近衛公爵も困惑していたとされます。

 

 

昨日、松本から、憲法改正をするとしても主導権は政府にあると釘を刺されたのに、この記事では、あたかも自分が政府をリードしているようにも見える。

 

しかしながら、そもそも幣原首相が、改正に消極的だというから、自分が前に出ただけのことだ、と。

 

まあ、保身的な弁明に聞こえますけどねえ。

 

 

 

さらに、近衛公爵が単独で進めていた改正案作成のために、恩師である京都大学教授の佐々木惣一博士が、その依頼を受けて上京して来たのであります。

 

 

 

 

戦前の憲法学の重鎮の一人である佐々木惣一

 

 

 

 

いくら松本に釘を刺されたとはいえ、既に車輪は回り始めており、今更これを止めるわけにはいかない。

既にサイはなげられてしまっているのであります。

 

 

 

また、ここで、この佐々木博士と近衛公爵の会話の内容が興味深いものがあります。

 

 

佐々木 この憲法改正は陛下のご意思により、日本人の自由な立場で考えるものですな

近衛  そのとおりです。憲法は日本人のものであり、陛下とわれわれのものです

 

 

 

ここで、当時、近衛公爵の側近であった牛場友彦は、ふと疑念を抱きます。

 

 

 

日本人の自由な立場で憲法を改正する」とは言うが、それでは、いつまでという期限はなく、またマッカーサーから指示された意向はどうなるのか。

 

 

近衛公爵はそれを佐々木博士に伝えていないではないか。

 

マッカーサーは、近衛公爵に「憲法改正をしろ」と確かに言っております。

 

 

しかし、後に明らかになるのは、それは近衛が日本の政界の重鎮であるが故の指示であり、近衛自身に直接それをやれ、と言っていたわけではないということ。さらに、マッカーサーの側近からは、その具体的方針まで示されているのに、それを無視して自由にやっていいのか。

 

 

むろん、日本側で自由に作成したものが、そのアメリカ側の示した方針に沿っていれば全く問題はない。

 

そして、佐々木博士は美濃部達吉博士と並んで、日本の憲法学のトップに立つ学者で、同時に自由主義的な考えに立つとされる。

 

 

しかし、佐々木博士は、当時の日本人のすべての人々がそうであったように、強固な愛国心、皇室崇拝心を有すとされ、それが改正案に及ぼす影響はどうなるのか。

 

 

近衛公爵は、そんな牛場の想いを無視するように、これまた、彼自身の都合のいい解釈をもって駒を先に進めようとしているのであります。

 

 

少し、話が先走りますが、憲法の改正案は、当初はまず、この佐々木試案、そして政府首脳部の松本試案の二つがありました。

 

 

 

そして、もし、このいずれかが採用されていたら、今の日本はなかったでしょう。

 

後に明らかになってきますが、いずれの試案も明治憲法を手直ししたような内容で、現在の日本国憲法が示す国民主権なんてものではなかったのであります。

 

 

天皇の権限の大きいのもさることながら、その是非はともかく教育勅語が学校で奉読されていたのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

もしかしたら、不敬罪なんてものも、そもまま残り、例えばの話、やはり、そのまま残った紀元節(※ 現・建国記念日)に、各家では国旗の掲揚が義務付けられ、それをしないと、「非国民!」なんて非難された、かもしれないです。

 

 

前にも書きましたが「歴史に、『もし』はない」のですが、しかし、あえて、この「もし」そうなっていたらと思うとちょっと怖いですねえ。

 

 

天皇崇拝は、まあ、いいんですが、それがさらにエスカレートして、「天皇がおられる皇居の方に足を向けて寝てはいけない」なんていうことになり、これを学校で教師が生徒に指導し、あっしのようなひねくれたガキが、「じゃあ、お尻は向けてもいいんですか?」なんて、くだらねー質問して、往復ビンタをくらう、とか。

 

 

皇居の方に足を向けてはいけない」たって、場所とか、家の作りから、そうしないと「北枕」になってしまう場合だってあるはずですし。

 

 

 

 

 

不敬罪に問われないようにするか、北枕にするか

それが問題だ

 

 

なーんて、宿泊したホテルの朝食を、和定食にするか、洋定食にするかなんて問題よりはるかに重要な決断を迫られるように思います。