憲法記念日には憲法を考えてみましょう GWなんて言って浮かれ遊びまわっているのは非国民です | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

憲法記念日であります。

 

 

1947年(昭和22年)5月3日、前年の11月3日に公布された日本国憲法(現憲法)は、この日をもって施行され、皇居前広場におきましては、昭和天皇の臨席の下、政府主催による「日本国憲法施行記念式典」が行われました。

 

 

 

 

日本国憲法施行記念式典

 

 

 

この日をもって、日本は新たなる歴史のスタートラインに立ったのであります。

 

 

 

して、憲法とは何か。

 

 

これは国家の統治権や統治作用に関する根本原則を定める基礎法とされます。いかなる社会・経済構造をとる場合、必ずそれを行使する機関が存在しなければなりませんが、この機関の権力と作用および相互関係を規律する規範であり、いかなる時代のいかなる国家にも存在するとされます。

 

 

(以下、憲法学の芦部信喜『憲法(第5版)』岩波書店を参考にしてます)

 

 

 

憲法と言って我々がまず思い浮かべるのは聖徳太子の定めた十七条憲法でしょう。

 

しかし、憲法という名を冠してはおりますが、近代憲法とは大きく異なり、これは官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものとされます。

 

 

以降、日本の憲法は明治になって制定される大日本国憲法(明治憲法)までは存在しませんでした。

 

 

むろん、それに類したものはあったとおもいますが。

 

 

 

長い太平の眠りから覚めてみれば、日本は西洋列強を中心とした国際情勢の中に羅針盤もなく漂っているような小さな島国、それも言うところの後進国でした。

 

そんな広い世界にあって、日本が一人前の独立国家として認めてもらうためには、それを支える基礎法としての憲法がないと列強諸外国に相手にされないと考えた明治政府は、憲法の制定に向けて動き出します。

 

 

その経緯を詳しく追ったものに比較法史が専門の瀧井一博の『文明史の中の明治憲法』(講談社)があります。

 

 

 

クソ難解な法学書というより、気軽に読める文明史といった本です

 

 

 

 

岩倉具視、木戸孝光、大久保利通、伊藤博文といった当時の明治首脳部の重鎮が「西洋列強の文化、憲法を学んで来い」という明治天皇の特命を受けましてアメリカ、そしてヨーロッパに旅立つのであります。これが世にいう「岩倉遣外使節団」であります。

 

 

して、当時のプロイセン(ドイツ)君主権の強い憲法を手本にし、日本独自の明治憲法が作られることになりました。

 

 

この憲法は立憲君主憲法とはされておりましたが、神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であったとされます。

 

君主と言いましても、日本の君主であらせられる天皇は畏れ多くも神の末裔であり、現人神(あらひとがみ)でしたからねえ。

 

 

 

 

 

 

 

非常に偉いのであります。よりも偉い(たぶん)。

 

 

 

その神の言うことは絶対であり、国民ならぬ臣民はみな天皇の言うことに従わないといかんよ、と。

 

あえて言わせてもらえば、その天皇の下、政治を行う政府の言うことに従わないといけない、ということでしょう。

 

 

実のところ、鎌倉幕府以降、室町幕府、そして徳川幕府と、日本という国は武士による幕藩体制が取られ、実質的な政治はこの幕府が行ってきたのであります。

 

まあ、それ以前にも平家とか藤原氏とかが、天皇の縁戚を固め、実質的に政治をおこなってきたのでありますが。

 

 

つまるところ、天皇自らが実質的に政治を動かすというのは、日本の歴史においてはごく初期に限られていたのではないかと思います。

 

 

さて、明治という時代。天皇は名目的には日本という国のトップでしたが、実際は徳川幕府を倒した、長州、薩摩、土佐、水戸といった藩の有力メンバーこそが、維新の立役者として日本の政治中枢を担っていたのでありまして、あえて言えばやっていることは、幕府とさして変わらないような気もします。

 

 

祇園際にあっては、神を神輿に祀り、これを担ぎ、実質的な祭りを動かすのは神ではなく人間であるわけですが、天皇もまた、この神輿に祀られた存在といえなくもないかもしれません。

 

 

して、この明治憲法の特色ですが、主権はあくまで天皇にあります。また、日本国の元首として統治権を総攬するのであります。つまりは絶対的権力者なのであります。

 

 

しかし、後に問題となるのが軍(軍隊 陸軍・海軍)の統帥に関する大権(11条)が一般国務から分離・独立し、それに関する内閣・議会の関与が否定されていたことでししょう。

 

 

つまるところ、軍は政府と全く独立し、天皇だけがこれを統括するものとされておりました。

 

むろん、明治憲法の制定にあたっては、後に生じることになる、この統帥権の乱用(?)ともいうべきことまでは想定されていなかったと思います。

 

これを、運用というよりは、むしろそれこそ乱用する軍部が暴走(!?)することになってしまったとされます。

 

 

よく、天皇の戦争責任ということがいわれますが、昭和天皇は皇太子時代、イギリス(※ 他にも欧州を回る)に行き、この地でイギリス王国における国王のスタンス「君臨すれども統治せず」に少なからぬ影響を受けたとされ、自らもまたそのような地位としてあるようにしていたのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

明治憲法でいう「総覧」、「統帥」も、まさにそういう意味にも解釈できます。

 

 

して、日本が進んでいった、あの戦争への道は、全てが全て軍部の暴走とは言わないまでも、このような明治憲法が抱えていた要素もまた大きく絡んでいたようにも思います。

 

 

もちろん、この明治憲法も、当時とすれば日本における最高の叡智を結集して作られたものでありますから、そこに欠陥があるなどということは、まずもって考えられなかったと思います。

 

しかし、世の中に絶対的に正しいもの、なんてことはないはずですし、たとえそうであったとしても、それを実質的に運用するものの解釈で、おかしな方向に進んでしまうことだってあるのではないか。

 

 

日本国憲法の第9条にしても、解釈、運用次第で実質的な軍隊とも言うべき自衛隊もできましたし、こんどは武器の輸出まで認められる、なんてことまで言われております。

 

 

そこら辺に転がっている、何の変哲もない石ころだって、その気になれば人を殺傷する道具にもなります。

 

また、「アホウ(バカ)と鋏は使いよう」なんていいますが、使い方次第では毒にも薬にもなると思います。

 

 

 

 

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使いよう」とは言いますが・・・。

 

 

あっしなんぞは、パワハラ、クソ陰険上司から、かつて、

 

 

 

おまえは、ほんと、使えねーなー

 

 

 

 

といわれたことがあります。

 

 

アホウならまだしも、それ以下、ということだったのでしょう。

 

 

 

いつか殺す!

 

いつも、明るい月夜の晩ばかりだと思うなよ。せいぜい、暗い夜道は気を付けるんだな

 

 

って、ひそかに思ってました。