『女と男のだましあい』 クジャクの雄の羽はなぜ美しいのか? 性淘汰論から考える男女 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

ダーウィンであります。進化論であります。

 

この進化論を発表した時、彼はボロクソ批判されました。

 

 

神に似せて創造された崇高なる人間の祖先がサルだと!?

 

 

 

当時のダーウィンの風刺画

 

 

 

現在でも「人間の祖先はサルだった」なんて、言う方がたまにいますが、進化生物学的に言う「サル(ニホンザル)」は、人間の遠い親戚にはなりますが、祖先ではありません。

 

 

ちなみに、ダーウィンは敬虔なクリスチャンで、最初はこのような旧約聖書は『創世記』の内容を覆しかねないこのような説を発表するのをためらったそうです。

 

 

 

さて、そんなダーウィンを悩ませた事実があります。それは、一部の生物が、自分の生存を妨げかねないような形質をわざわざ発達させているという奇妙な事実であります。

 

 

まず、主に砂漠などの乾燥地域に生息するジリスは集団、つまり群れを作って生活していますが、天敵である鷹などの猛禽類を発見した一匹のジリスは、自分だけさっさと逃げればいいのに、立ち上がって仲間に警戒するようにという鳴き声を上げるとされます。して、みな、一目散に地面に掘った穴に退避するのであります。

 

 

 

 

立ち上がったジリス

 

 

 

立ち上がる、そして鳴くということは、それだけ自分が目立つのであり、天敵が真っ先に狙う対象になるはずです。

 

 

 

一人は皆のため、皆は一人のため

たとえこの身は鷹に捕まろうとも、それで本望

 

後のことは頼んだ。天皇陛下万歳!

 

 

 

なーんて、「天皇陛下万歳!」などと言うわけはないんでしょうが、ジリスはそもそも、身を挺して仲間を救うという、犠牲的精神を持った崇高なる生き物なのか?

 

 

しかし、いろいろと調べてみますに、これは互恵的行動ということになります。「互恵」というのは、お互いが得をするという意味です。なるほど、天敵の第一発見者である者があえて危険を冒せば、自身が真っ先に狙われるかもしれませんが、他の仲間は助かる可能性が高くなります。

 

 

これを他者に置き換えてみるとどうなるか。他の誰かが第一発見者で、それを教えてくれれば、自分としてはありがたいです。

 

もし、第一発見者が真っ先に逃げだしたら、他の仲間が犠牲になるでしょう。

 

 

 

して、これは誰にも言えることで、お互い様でしょう。

 

もっと言いますと、うまくすれば、第一発見者が皆に知らせることで、全員が無事に逃げ出せるかもしれない。

 

これが最も望ましい形でしょう。

 

 

ジリスは、こういう習性を進化において身につけたと考えられています。

 

 

 

人間社会では「情けは人のためならず」なんて言いますが、これ、そういうことをしていると、それがめぐりめぐって自分のためにもなる、ということを示していると思います。

 

これを「利他行動」なんて言います。あえて、他者の利益になることをすると、いつかはその恩返しを受けることが多い。

 

 

 

自分さえよければ」というよりも、「助け合う」、「協調しあう」ほうが、大きな視点に立てばずっと有利なのであります。

 

べつに、倫理道徳論を説いているのではなく、もっとずっと合理的な論理のはずです。いっそ、生きてゆくための、より望ましい生存戦略とでも言えるかもしれない。

 

 

 

次に、多くの生物種において見られる、きらびやかな飾り羽根、大きすぎる角という目立ちやすい特徴は、そこ個体の生き残りという点では不利のように見えます。

 

例えばクジャクの雄の美しい飾り羽根は捕食者の目を引き付けてしまうはずです。むしろ、目立たない地味な羽根の方がいいはずではないのか。

 

 

 

 

 

 

ダーウィンが出した結論は、羽根のより美しい雄の方が、そうでない雄と比較した場合、雌を引き付ける魅力があるのではないのか、ということでした。

 

 

もっと言いますと、クジャクの雌は美しい羽根を持った雄をパートナーとして選ぶがゆえに、そういう美しい羽根を持つ雄こそが、子孫を残すことができたということになるでしょう。

 

 

 

人間で言いますと、イケメンの男の方が、ブ男よりも女性にモテる、つまり、子孫を残す可能性が高くなる、と言えるでしょう。

 

まあ、さもありなん、ってもんですが。

 

(※ また、別の機会に書きますが、人間の世界はそれほど単純ではありません)

 

 

 

しかし、捕食者に見つかりやすいというリスクはどうなるのか。むしろ、保安性のことを言うなら地味な雄の方が望ましいのではないのか?

 

あえて言いますと、そのリスクを冒してでも、クジャクの雄同士による雌獲得競争に勝つ方がいい、ということであったのか。

 

 

もっといいますと、クジャクの雌からすれば、美しい羽根を持った雄とその時だけ仲良くし、種をもらえば、あとは野となれ山となれで、捕食者に食われようが構わない?

 

 

なにも、父ちゃんの稼ぎとか、子育てを期待しているわけでもなし、と?

 

 

 

さて、このような生存競争における利点ではなく、繁殖上の利点によってある形質が進化してゆく現象は「性淘汰」というのだとか。

 

この方向は二つあり、一つは例えば鹿の雄にあっては、同じ雄と戦い勝つためにその角が大きくなっていったとされますが、これは対同性でしょう。これに対し、クジャクの雄の美しい羽根は対異性でしょう。

 

 

 

して、このような考え方を人間に当てはめてみるとどうなるか。

 

 

例えば、人間女性の乳房がありますが、これ、などの雌と比較してみるとわかりますが、そもそも、子育てを行う、つまり赤ちゃんに乳を飲ませるにあっては、特に大きく膨らませる必要はなかったとされます。

 

 

 

 

 

では、人間女性の乳房はなぜ大きくなったのか。

 

 

 

幾つかの説がありますが、最もよく知られているのは動物行動学者であるD・モリスが呈示しているものであります。

 

 

また、サルの話ですが、例えばニホンザルの雌の場合、発情期ともなりますとお尻が赤くなってきます。これは「交尾OK]のサインだそうで、発情期外ですと、勝手にその気になった雄が近づいていっても、「セクハラよ!」と邪険に拒否されるといいます。

 

 

して、「いらっしゃーい」の時ですと、これはと思う雄の前に行き、その赤くなったお尻を高々と掲げ、悩まし気に鳴いてみせるのだそうです。

 

雄の方はと言いますと、「男子の面前でケツを見せるなどとは、無礼千万!」と怒り出す、なんてことはなく、「うーむ、オレに気があるのか。愛い奴め」と思うらしいです。まあ、言うところの「据え膳食わぬは男の恥」ってことなんでしょう。

 

 

 

くどいようですが、雌がそうするのは、「これは」と思った、つまり好意を持った相手に対してだけであります。

 

 

 

そうではない雄の場合は・・・。

 

 

武士は食わねど高楊枝

色即是空、空即是色

 

 

なーんて、一匹、孤高の境地でいるのであります。あるいは、「いいなー」なんて思いながら、指をくわえて仲良さげな二匹を見ているのであります。

 

 

さて、モリスに言わせますと、このお尻こそが類人猿の雌におけるセクシャル・アピール、性記号となっていると考えられるのだとか。しかし、人間は二足歩行をするようになり、こうなりますと、お尻はもはや後ろに隠れてしまい、性記号の意味をなさなくなってしまったのではないのかと。

 

 

して、その代わりに人間の女性は性記号として乳房を大きくしたのではないかというのであります。

 

 

 

 

胸元を大きく広げたデザインを「デコルテ」と言います。ヨーロッパの民族衣装に多い

 

 

 

 

再度言いますが、解剖学的にいますと、母乳がよく出るかどうかは乳房の大きさとは何の関係もないとされます。犬の雌と同じように、特に大きくならなくたって問題はなかったとされます。その中身だって、多くは皮下脂肪だとか。

 

 

 

しかし、このようなことが現代にあってわかってきたことでして、はるか昔ですと、やはり乳房の大きい女性の方が母乳がよく出ると考えられ、同時にそれが望ましいこととされていた多産であると考えられたのか。

 

 

 

 

 

 

上の写真はヴィンドルフのビーナスという、古代の女性の像(女神)ですが、胸と腰がきわめて大きく誇張されておりまして、これは多産、そして豊穣をこの像に祈願したのではないかとされます。

 

 

 

なるほど、男性一般からしますと、胸の小さな女性よりは、大きな女性に性的な魅力を感じることは事実でしょう。

 

いやらしい」なんて言われるかもしれませんが、少なくとも一般的な事実だと思います。

 

 

 

中には、「あのねえ、大きさではなく、感度と機能が大事なのよ」なんてことを、のたまわっていた、微乳(※ たぶん)の女性もいましたが。

 

 

ついでに言いますと、女性の性的魅力というものは、実は文化的な要素も少なくありません。

 

 

 

例えば話、熱帯などでほぼ裸体で生活している原住民の方ですと、とりたてて乳房を覆うというようなこともなく、平然としております。画家のゴーギャンが、最初は驚いたそうですが、南洋なタヒチの島の女性もそうであったようで、つまり、こういう地域にあっては女性の乳房は、必ずしも性的記号を持ったものではなかったと考えられます。

 

 

また、先進国一般では、やせた女性の方が魅力的であるというまことしやかな説が、まかり通っておりますが、アフリカあたりですと、むしろ太った女性の方が魅力的なのだとか。これは、こういった社会が多産を求めているからだそうで、やせた女性ですと「ちゃんと飯を食ってるのか」、「貧しいのか」、「あれじゃ、何人も子を産めまい」なんて評価が低いとされます。

 

 

 

さて、となりますと、人間女性の乳房の大きさも性淘汰という理論から説明できるかもしれません。

 

 

つまり、乳房の大きい女性の方が多産で、母乳もたくさん出て、望ましいとされたがゆえに、クジャクの雄の羽根や鹿の雄の角と同じように大きくなってきた?

 

 

一方の男はといいますと、これは遥か昔ならば、外敵なんかと戦ってもらうためにも筋骨隆々の、いっそマッチョマンのような男が望ましいとされていたのかもしれませんが、今ですとねえ。

 

 

むしろ、こういう男は、そうい所にみな栄養が行ってしまい・・・、頭は空っぽ(中身がない)と敬遠されるのか?

 

 

むしろ、現代にあっては知性とか経済力、あるいは社会的権力を持っていた方が、女性からすれば魅力的なのか?

 

 

 

あの、えっと・・・、そーいうものが劣った、いっそ、ない男はどーなるんでしょう

 

 

 

そう言う男はねえ・・・。

 

 

やっぱり、武士は食わねど高楊枝で、色即是空、空即是色とでも唱えているしかないの。

 

 

 

 

寂しいですねえ。