あやしいキリスト教 フェミニズムから考える、いわれなき差別を受けてきたイブの再評価 女神? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

何度か書いてきましたが、キリスト教、それもフェミニストから言わせますと男性優位主義に立ったとされるキリスト教は、イブに対してはきわめて低い評価、いっそ非難されるべき存在ということになっております。

 

 

2世紀にエイレナイオスという聖職者が、5世紀にはアウグスチヌスが、わけのわかんねー原罪論なんてものを主張しまして(※ 本家のユダヤ教にはそんなものはありません)、人間は生まれながらに罪深いのだなんてしておりまして、アダムもまあ、共犯なんですが、主犯こそはイブだということになっております。

 

 

 

 

楽園追放

 

 

 

その血を受け継いだ女性一般も、つまりはイブの末裔である以上、男性よりもはるかに罪深いのであり、ゆえに聖母マリア様を見習いなさい、と説いてきたのであります。

 

 

一方のマリアは、イブとは対照的に、それこそ女神のような扱いでして、場合によってはイエスその人を凌ぐほどの人気があります。また「父なる神」は、やはり威厳が漂い、怖いイメージがありますが、これが「聖母」マリアともなりますと、慈悲深い母親のイメージがあります。

 

 

 

 

 

 

さあ、何でも言ってごらんなさい

悪いようにはしないから

 

 

 

 

す、少しぐらいなら・・・・、わ、悪いようにされても、いいかも

 

 

 

罪を悔い改めるにせよ、何かをお願いするにせよ、神やイエスよりも、聖母マリア様の方が親しみやすいです。

 

また、亡くなったイエスを膝に抱き涙するピエタ像は、まさに母性の象徴でして、母となった女性は子のマリア像に自身を重ねることがあったのではないかと思います。

 

 

一方、『ヨハネの黙示録』に登場する、マリアとされた女神は、邪悪さのシンボルであるヘビを足下に踏み敷く、なんとも勇ましい姿に見えます。

 

 

このようなマリアの姿は、まさに古代宗教における女神でしょう。

 

 

 

さて、イブですが、彼女の名前は本来「生命」を意味し、「すべて命あるものの母」ということだとされます。

これこそは、言うところの「地母神」でしょう。

 

古くは、ヴィンドルフのヴィーナス像にも通じ、さらには古代シュメールの女神・イナンナ、そしてギリシア神話のアルテミス、ローマ神話のヴィーナスにも重なるように思います。

 

 

 

 

イブの原型(?) ヴィンドルフのヴィーナス

 

 

 

 

邪険に扱われている、ヘビも実は、その脱皮する姿から永遠の生をシンボリックに示す存在であり、イブとの関連性もあるように思われます。

 

これらの女神、そしてヘビは古代の豊饒儀礼とも深く関わっていたとされます。

 

思うに、「創世記」におけるイブは、このような豊饒性を約束してくれる地母神のイメージを持っていたように思います。

 

 

そういった、力強い生命力を示す地母神の末裔とも思われるイブが、なぜに不当なまでに扱われてきたのか。

 

 

確かに、豊饒性は望ましいことではありますが、同時にそこには危険な要素もあるように思われます。

 

地母神には、実は死のイメージもあります。過剰なる豊饒は危険でもあり、植物が春になって再生するためには、冬における死が必要とされるのであります。地母神は、この死をも司る存在だとされます。

 

 

ゆえに、人間はそのような自然生命力を抑制、コントロールする必要性を感じていたのではないかと思います。「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのであります。

 

 

男と女が愛し合うのはごく普通のことでしょう。しかし、それ以上であってはいけない?

 

己自身の欲望のためにイブはアダムを惑わした?

 

 

 

さて、類人猿の一種にボノボがおります。このメスは、オスが貴重なタンパク源である小動物の肉を持っているとわかると、自ら性的な誘いを仕掛けるといいます。

 

 

 

おいしそうなお肉。ねえ、あたしにも少しちょうだい

その代わり・・・、ウフフフ

 

 

 

なんてねえ。

 

 

 

女性の媚態?

 

 

 

そーいうことが、いかんのだよ」ということなのか、

 

 

女性はもっとしおらしく、貞淑であれ。

 

 

 

実のところ、古代農耕社会、例えばこの「創世記」が作られた時代は、ユダヤ民族の多くがバビロニアに捕囚されていたとされますが、このバビロニアにあっては豊饒儀礼としての、その名も神殿売春なるものがあったとされます。

 

古代の農耕儀礼には、男女の性的結合こそを、豊穣のシンボルとする考えるからがありまして、これは日本文化にも見られるものです。

 

バビロニアの神殿売春も、それと同じで、この地の女性は一生に一度は神殿に行き、そこでいうなれば巫女(※ 豊饒の女神)という役割を負い、これをおこなったのだともされます。言うまでもなく、これは宗教的な儀礼でもあったわけです。

 

 

しかし、元々は遊牧民族であったユダヤ人は、このような農耕民族の風習(文化)が理解できず、これを嫌悪したともされます。

 

 

思うに、もしかしたら、このように女性存在に大きな意味を持たせる文化を批判する意味で、性的な意味で奔放(?)ともいえるイブという女性像を作り出し、自分達は、これを抑圧、否定するのだと言いたかったのか。

 

 

当時のユダヤ社会には、実はこのバビロニアにおけるような女神、地母神の信仰も広がっていたとされます。実際、このような地母神信仰は世界規模でみられるもので、逆に言えばこれを受け入れない、いっそ否定するというユダヤ文化、ユダヤ民族の方が特殊といえるかもしれないです。

 

 

地母神に通じるようなイブは否定されなくてはならない。女性というものは、すべからく、その欲求や存在性を強く主張したりせず、あくまで男性の下に従属し、言うことを聞きなさい。アダムのような、夫である男性に従いなさい。

 

 

 

フェミニズムからしたら、こんなことは言語道断だというわけなのでしょう。

 

 

まあ、「創世記」も神話でして、そこに、そんな意味を見出せるのかどうかは何とも言えませんが、こういった解釈もされてきたと考えられます。

 

結論からすれば、やはり、女性はしおらしく貞淑であるべきで、イブのように男に惑わしてはいけません、ということなのでしょう。

 

 

 

 

このような考え方は、キリスト教と同じくユダヤ教から分かれて発展していったイスラム教にあってもみられます。

 

 

例えば、女性たちの顔を覆おうヴェール(ブルカ)がそうでしょう。

 

女性の性的魅力を極力抑制することが目的で始められた風習だとされます。

 

 

 

ブルカを付けた女性

 

 

 

嘘か本当かは知りませんが、夫ですら妻の素顔は一度見たことがない、なんてこともあるのだとか。

 

 

見目麗しい女性であれば、いっそ「宝の持ち腐れ」と残念がるのかもしれませんが、そうでない方の場合だと、自身の容貌を知られることがないわけで、これはこれでありがたいのかもしれませんが。

 

 

ちなみに、このブルカもまたフェミニズムからは批判の対象になっております。

 

 

そもそもの、この考え方の根底にあるのは男性からの視点ではないか。

女性の容貌の美醜に拘るからこそ、こういう風習を押し付けたのだ、と。

 

 

 

 

そうよ、女性差別も甚だしいわ!

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

あんたの場合は、いっそブルカをした方が。

 

 

なーんてことを言いますと、フェミニストどころか、女性一般から総スカンを食らうでしょうねえ。