「食ったらあかんよ」と神から命じられていた知恵の木の実を食っちまったアダムとイブであります。いうところのタブーの侵犯であります。
「食ったら死ぬでー(毒入りやからな)」なんて、神様は言ってましたねえ。
んなもなー白雪姫にでも食わせるしかない?
して、まずは神にその点を叱責されたアダムの言い分です。
あの女が旨いから食えというもので、つい・・・
そもそも、神はアダムにこの園の管理を任せております。ゆえに、アダムは責任者なのであります。それなのに、このヘタレ野郎はその責任をイブに押し付けてます。無責任野郎です。こんな男が、人類の男の祖というのは情けない限りです。線香なんかあげてやるものか、と。
もっと言いますと「(神が)私と一緒にしてくださったあの女」なんて言っておりますが、これは創造主である神にも責任を負わせようとしております。製造物責任ということなのか。
とんでもねー野郎です。
続いてイブの言い分です。
ヘビが私を騙したのです(わたし、悪くないもん)
これまた責任逃れしようとしてます。しかし、「騙される方も悪い」のであります。
して、このようにして二人は共犯関係にあり同罪となるはずなのですが、キリスト教的な解釈におきましては、アダムの責任問題よりも、先に騙され、なおかつ、アダムにも食べるように勧めたイブが悪い、ということになっております。
ここがフェミニストに批判されるところであります。
女は、このように簡単に騙されてしまう、さらには、男を誘惑するのだ、と。
実は、この禁断の実を食うというのは、実は性行為の暗喩ともされます。二人が裸であることを恥じらった、というのもそのことを意味しているのだとか。
英文学者の西山清の『聖書神話の解読』(中央公論社)においては、西山センセがこの部分を丁寧に解説しております。
なお、禁断の実は今でこそリンゴとされておりますが、聖書にあっては、特にそうだとは書いてありません。むしろ、裸であることを恥じらうため、イチジクの葉で覆ったとありますことから、むしろイチジクの実ではなかったか、という説もあります。
しかし、あえてリンゴにしたのは、このリンゴなるもの、女性の貞操に関わる意味があるからなのだそうです。西山センセによれば、御不審の方はリンゴを縦割りにしてみればいい、なんて書いてます。
それでもわからんという方は、御自身の想像力(いっそ妄想力)が乏しいと考えてください。
しかし、べつにそれで責められるということもないはずです。
なお、あっし個人としては、島崎藤村の『若菜集』の一節を思い出します。
まだ、あげ初めし前髪の 林檎のものに見えしとき
前にさしたる花櫛の 花ある君とおもひけり
やさしき白き手を伸べて 林檎をわれにあたへしは
薄紅いの秋の実に 人こひ初めしはじめなり
ねえ、アダム。食べてみて、とってもおいしいのよ
やーねえ。りんごじゃなくって・・・、あたしよ。あたし
つまりですねえ、このアマ・・・、いや、イブはですねえ、アダムを誘惑した、というのであります。
まあ、確かにそのような深読み的な解釈もできるでしょう。神話なんてものは寓話ですから。
と、これがゆえに、
あろうことか、自分で禁を犯しただけではなく、
アダムまで誘惑し、堕落させたイブは、とんでもねー性悪女だ
なーんて、いうところの男性優位主義的な解釈は、女性を侮辱するものだとフェミニズム神学は主張しているのであります。
以下、これについて、先回も紹介しましたが『女神 聖と性の人類学』(平凡社)の中の、岡野治子「聖とセクシュアリティ―の拮抗するキリスト教文化 ー エバとマリアをめぐって」に沿いながら考えてみたいと思います。
岡野によれば、「イブに投影された処女喪失=罪という定式が弾劾されればされるほど、マリアの処女=聖性が讃美されてきた」のだとか。
確かに、イブとマリアを対照的に描く絵画も幾つかありまして、言うまでもなくマリアこそが望ましい女性像とされております。
ついでにいますと、イブーマリアの図式に対照されるのが、アダムーイエスという図式であります。
アダムとイブの罪は、イエスとマリアによって許される、というのだとか。
まあ、こじつけてきな解釈だとは思いますが、これがキリスト教の中にあって、長く説かれてきたという事実を無視することはできないでしょう。