あがた森魚の『赤色エレジー』という歌の中に、
幸子(さちこ)の幸は、どこにある ♪
というものがあります。
原作は 林 静一のマンガです
きっと、彼女の親は生まれた娘が幸せになって欲しいと、このような名前を付けたのでしょう。子を思う、親の気持ちが伝わってきますねえ。
そして、本当にそうなればいいんですが。
世の中、そんなに甘くはない?
さて、今回は世界の偉人、哲学者、小説家といった著名人が幸福(不幸)について述べたことについて考えてみたいと思います。
まずは1世紀の、古代ローマの喜劇作家シルスの『箴言』から。
己自身を幸福だと考えない者は、幸福ではない
前にも書きましたが、幸福なんてものは主観的なものです。傍目から見て、いかにも幸福そうに見える方でも、その本人がそう思っていなければ、幸福ではないのでしょう。
『ちびまる子ちゃん』のお姉ーさんは、妹からすれば美人で羨ましく思われておりますが、このお姉ーさんが言うには「いくら美人だと言われようが、好きな人が振り向いてくれなきゃどーしようもない」なんて言ってます。
なるほど、美人だろうが、イケメンだろうが、それで皆が皆、幸せということではないのでしょう。
イケメンなんかではない、あっしは、
ざまーみやがれ
なんて思いますが、かといって幸せな美人や、イケメンもいるはずですし、不幸なブスやブ男だっているはずです。
そう思うと、むしろ、もっと落ち込みます。
そんな、あっしに『悪魔の辞典』の著者、A・ビアスの言葉が突き刺さります。
幸福 ー 他人の不幸を眺めることから生ずる快適な感覚
「あなうれし、隣の蔵が売られてゆく」なんていいますし、「他人の不幸は蜜の味」などとも言います。
人間だれしも、こういう気持ちを少なからず持っているのではないか。
大リーグでMVPになりやがって。天文学的な年俸もらいやがって。おまけに美人の奥さんだと
それが、気を許していたギャンブル狂の通訳に裏切られやがって、いい気味だぜ
なーんて言っているような方もいますからねえ。
でも、こういう方って、それで、むしろ自身の人間性の愚劣さを表しているように思います。
そんな偉大な人間になれないという惨めさが、そこに示されている、と。
こういう方とお友達にはなりたくないです。
次に、ロシアの『イルクーツク物語』なんて戯曲を書いたアルブーゾフという方のものです。
幸福というのは、一人では決して味わえない
そーなんですよ。
自分一人が幸福だと思っていても、周囲の人間が不幸だったら、気まずくて、その喜びを素直に表せないでしょう。
それを、つい、独り占めしようとすると、周囲から反発だって食らうでしょう。
貧しい田舎の夫婦が、きわめて高額な宝くじに当たっとか。
その村でも評判になり、村人が皆で祝ってくれたと言います。
しかし、この夫婦、そんな村人にはびた一文も分けるということもなかった。
次第に村人とも疎遠になんてゆき、ついにその関係は険悪なものになり、いたたまれなくなって都会に出た夫婦。
しかし、その都会には知人、友人もなく、夫婦二人の孤独な日々。そして高級アパートで迎える孤独な死。
この夫婦が得たものと、失ったものは、どちらが大きかったのか。
これ、確か、イギリスにあった実話だったと思います。
貧乏人が、日頃持ちつけない大金を得るとロクなことにならない、ということか。
まあ、人生が狂うでしょうねえ。
年末ジャンボ宝くじの、末等300円が当たったと、満足していないといけないのかも。
ささやかな幸せを大事に。
さらに、17世紀はフランスの著述家フォントネルの『幸福論』から。
幸福とは、そのまま変わらないで欲しいような、そのような状態である
丸山圭子の『どうぞこのまま』という歌の歌詞に、
どうぞこのまま どうぞ やまないで ♪
というのがあるんですが、そして、これは「雨がやまないで」という意味で、それなら、ずっと二人いっよにいられるから、ということのようです。
して、この歌を最初に聴いたあっしは、この「やまないで」を「やめないで」と聴き間違えまして・・・。
これは、きっと、女が愛する男に、「ずっと、このまま抱きしめていて」という意味の言葉なのだと勝手に解釈し、いっそ邪推し、メチャクチャコーフンしておりました。
ロミオとジュリエット
大バカ野郎です。
丸山圭子に謝れ!