あやしい幸福論 2 宗教は人を幸福にしてくれるのか? 信じれば幸せになれるのか? ほんとかよ | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

その名も幸福の科学と名乗る宗教が立ち上げた政党に幸福実現党というものがあります。

 

 

まず、引っかかるのが「科学」という言葉でして、これは学問的な実証的学術研究を言い、狭義的には自然科学を意味します。広義には人文科学、社会科学をも含みます。

 

 

然るに、幸福なんて、それこそ個々人の主観的要素が大きなものを科学的に探究できるものなのか。

 

ちなみに、1946年から1996年まで発行された思想雑誌に「思想の科学」というものがありました。思想が科学の対象となるなら幸福だって科学的にアプローチが可能ということであったのか。

 

 

確かに、心理学精神医学、脳科学の領域から幸福についての客観的なアプローチというものもあるようです。こちらは統計分析的手法をもって行うものだそうです。

 

 

して、幸福実現党を立ち上げた時、この時は、この教団の教祖夫人が党首として選挙カーに乗り込み「みなさんは幸福になりたくはないんですか?」と叫んでいたことがありました。

 

 

 

 

 

つまり、幸福実現党に票を入れない、支持しないと、あるいは宗教としての幸福の科学の説くことを信じないと幸福にはなれない、という論理であったようです。

 

 

 

なるほど、宗教の中にはこのような主張を行うものが少なくありません。

 

例えば天理教には「陽気暮らし」なる主張があります。

 

 

 

 

 

教団によれば「我々をはぐくみ育ててくれる大自然を司る親神様の恵みに感謝し、その守護に生かされていることを認識し、お互いに助け合って生きることこそが大事」なのだとか。

 

ここでいう「親神様」とはキリスト教でいえば「God」でしょう。そのままこの「God」に置き換えても意味は通るように思います。

 

 

神に感謝するというスタンスもキリスト教と全く同じです。

 

~してもらう」とか、「御利益がある」とかいう以前に、「生かしてもらっている」という事実こそに感謝しろ、と。

 

 

確かに我々は自分の意志でこの世に生まれてきたわけではないのでありまして、まず、親に感謝であり、そしてこの世界に人間を誕生させてくれた(らしい)神に感謝しなくてはいけないようにも思います。

 

 

これはつまり「幸福になる」ことを目指すというより、「幸福である」ということを自覚せよ、ということでしょう。

 

生まれてすぐに亡くなってしまう赤ちゃんもいます。成人になるまでに死んでしまう子供もいます。

 

 

それを考えたら、人生70年、いや80年、いっそ100年なんて言っているのは非常にありがたいことでしょう。

 

 

メーテルリンクの『青い鳥』ではありませんが、幸福になるカギは意外にも身近なところにあったりもする。

 

 

 

しかし、ただ生きていられるだけではなく、もっとはっきりと幸せになりたいと思う方だって少なくないはずです。

 

 

 

 

続いてはキリスト教の説く幸福観を考えてみましょう。

 

ここでは「幸福」が「救い」と置き換えられます。キリスト教の説く救いと言ってもいい。

 

 

 

一般的には、人間はそもそも罪深い存在だが、イエスという方が過去から未来永劫のその罪を一身に背負い、つまり身代わりになって死んでくれた、いっそ生贄になってくれたからこそ、このイエスをそういう神の子、救世主(キリスト)と信じ、その説いたことに従うなら救われる、幸せになれる、というものになると思います。

 

 

さらには、このイエスは死んでも再び蘇った。彼を救世主と信じ、その説くことに従うなら自分達もまた死んでも復活できる。そして永遠の至福が約束される天国に行けるのだ、と。

 

 

 

 

イエスの復活

 

 

 

東大総長も務めたクリスチャンであった矢内原忠雄の『キリスト教入門』の中に、長く結核療養中であった青年が、その死の直前にあって「天のお父さん、私は罪人でした。私は救われました。感謝です」といって天に召されたとありましたが、矢内原によれば、これこそがキリスト教の救いなのだとか。

 

 

しかし、これは現生の幸福ではなく、死後の幸福、というか、そうなれるという期待、願望でしょう。とは言っても、その期待、願望が間違いないと信じることで、確かにその死の瞬間に至るまでは幸福であったのかもしれません。

 

 

このような考え方は仏教の浄土信仰ともよく似ています。

 

 

法然親鸞も、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、誰もが極楽往生ができると説きました。そして、そう思うなら生きている今もまた幸せではないか、というのでしょう。

 

 

確かに、「お前は地獄行だ!」なんて言われて、びくびくしながら生きているのと、「極楽往生できる」と思って安心して生きているのでは全く違いますねえ。

 

 

 

 

 

 

しかしながら、このような救いなるものは、実はイエスその人の説いたことではなく、自称弟子のパウロが説いたことです。

 

 

なるほど、イエスは「神の国は近づいた」なんて言っておりますが、この意味は「正しい神の支配が隅々にまで行き渡った社会」というものです。「神の国」は「天国」じゃありません。して、こういう誤解がそのまま訂正されることなく一般的に流布しております。

 

 

確かにイエスは救いを説いていますが、それはパウロの、このような主張ではありません。

 

ややこしいのは、キリスト教は、イエスの説いた救いもパウロの説いた救いも、いっしょくたにしていることです。

 

 

 

じゃあ、イエスの説いた救いとはどういったものであったのか。

 

まずイエスのスタンスですが、彼は当時のユダヤ社会の、体制、宗教批判者でした。

 

 

体制というのは、当時の祭政一致の社会です。そこで説かれるのはメチャクチャ細かい生活規範でした。それをきちんと守れないと「罪人」とされました。法でいうような意味ではありません。

 

これは例えば、メチャクチャ厳しい校則に縛られた学校を思い起こしてみればいいでしょう。髪型から服装、言葉使い、態度、生活スタイル全般にわたって指導される。

 

 

生徒はもう息がつまるでしょう。

 

で、その反動で不良やいじめなんてものもでてくる?

 

 

 

ちなみに、とある、このような学校の一つで、このような校則を一切廃止したことがあります。しかし、当初こそハメを外した生徒が出たものの、その後がすぐにもみなおとなしくなり、むしろ不良やいじめがなくなった、とか。

 

嘘か本当かは知りませんが、これに対して校則復活を叫んだのは、かつての不良たちで、規制されたからこそ反発していたのに、それがなくなってしまったら自分達の立場がないのだとか。

 

 

さて、イエスは、そんなユダヤ社会にあって、こと貧しい人々、虐げられた人々、差別されていた人々、規範が守れないがゆえに罪人とされた人々の味方であり、彼らの代弁者であり、抗議の声をあげた方であります。

 

そんなイエスの、こういった人々に向けられた有名な言葉があります。これを「山上の垂訓」といいまして、「マタイ書」と「ルカ書」にあります。ただし、マタイ書の方はイエスの言葉をかなり捻じ曲げて、いっそ歪曲しておりまして、その意味がおかしなものになっております。

 

 

ここでは「ルカ書」の方を取り上げましょう。

 

 

 

貧しい人々は幸いである

神の国はあなたがたのものである

 

今、飢えている人々は幸いである

あなた方は満たされる

 

今、泣いている人々は、幸いである

あなたがたは笑うようになる

 

 

 

 

 

そのまま読めば「貧しい人々は幸い」なんてのはおかしいでしょう。なんで、貧乏なのが幸せなんだと。

 

これを通俗的に「貧乏人こそ、死んでから天国に行けるんだよ。金持ちなんか門前払いだよ」なんて解釈したらつまらんです。

 

 

 

実は、ルカもまたイエスの本来の言葉を脚色しているようでして、本来の意味は、

 

 

 

おまーら貧乏人こそがだな、幸せにならなきゃいけないんだよ

そもそも、神の正しい支配のもとにあったら、

金持ちがいて貧乏人がいるなんてことはおかしいんだよ

 

 

 

というものであったようです。

 

 

飢えている人が満たされる。泣いている人が笑うようになる。そんな世の中にしなくてはいけない

 

 

 

これがイエスの主張です。

 

 

べつに、イエス自身がそうできる、そうしてくれる、と言っているわけではないのであります。

神の子、救世主(メシア、キリスト)なんて言われてますが、それはあくまで、他人が評したもの。

 

イエス自身にそんな力はなかった。(※ もし、あったら、いっそ、その超能力を使ってそうしたでしょう)

 

 

みんなでそういう社会、世の中にしてゆこうじゃないか。

 

 

たった一人の人間だけでどうにかできるなんてものではない。みんなが力を合わせてこそ実現できる。

 

 

して、これは体制側、つまり為政者、宗教支配層からすれば面白くなかった。いっそ、イエスを反体制の危険分子とみなした。

今のロシアのプーチンさんが、体制批判者をことごとく排除、抹殺(?)してゆくのと同じで、イエスもまた反逆者として死刑にされてしまった。

 

 

ゆえに、プーチンさんは、あの悪名高きソ連の狂気の独裁者、スターリンの二番煎じのようにも見えてきます。

 

 

 

さて、これが、イエスの死の真相だとされます。

 

パウロは、このイエスの死を勝手に脚色しているだけです。

 

 

して、このように見てきますと、イエスは宗教者というより、行動者、実践者であります。

 

 

キリスト教を信じる、というよりもイエスに従い、後に続くというならば、それこそ「泣いている人がいたら、笑うようになる」べく手を差し出すべきでしょう。

 

 

実際、キリスト教徒の中には、こういう行動をとる方、実践者もおります。マザー・テレサなどもそうですねえ。

貧しい人々や、身寄りのない人、孤児などを保護する施設を運営するキリスト教会もあります。

 

 

暮れに、炊き出しを行うキリスト教会やクリスチャンの方々もおります。

 

 

このような、キリスト教でいえば「」、仏教でいえば「慈悲」の実践者は、少なくないとされます。

 

 

仏教では鎌倉時代の僧、忍性という方がおりまして、橋を掛けたり井戸を掘ったりという社会事業だけではなく、身寄りのない者、年老いた者、病人、ことハンセン病者を手厚く保護し、その療養所も幾つも作ったとか。

 

 

思うに、こういった実践があってこそ、これこそが宗教に期待される救いのようにも思います。

 

 

ただ信じれば、少なくとも自分だけは極楽や天国に行けるなんてのは、安易すぎませんかねえ。

 

 

まして、多額のお布施や寄付を集めて、そのお金で教祖とその一族が幸せになっている、なんてのは宗教の名のついた詐欺でしょう。

 

(※ 旧統一教会の教祖様なんかだと、信者から集めたお布施でアメリカはラスベガスでギャンブル三昧していた、なんていいますからねえ)