あやしいキリスト教 創世記 人間の創造・第二弾 土より造られ、土に帰る・・・。いっそ、帰れ | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

あっしの手元にある旧約聖書は古本屋で購入した1965年に三省堂で出版されたもので、もうボロボロのものですが、冒頭の『創世記』の第一章と二章には、元の所有者のものと思しき横線が引いてあったり、丸印が付いていたりと、熱心に読み込んだと思われる跡がありますが、第三章以降はなーんにもなく、もしかしたら、第二章を読んだところで挫折してしまったのでしょうか?

 

 

しかしながら、この物語は、先回も書きましたように、汲めども尽きぬ泉ような面白さがあります。

 

そもそも、こういった神話は、それが書かれた時代、社会における人々の世界観の表明であり、そこに込められたシンボリックな事象から、そういった人々の文化的価値観を見ることも可能だと思います。

 

 

さて、先回は第一章の末尾におきまして、ついに人間の創造が行われたということになっておりましたが、そして、先回も書きましたようにこの第一章と第二章は元々は別々の伝承ではなかったかとされます。

 

 

それを強引に一つにしたため、おかしな内容ともなっておりますが、その点に絡めて考えてゆきます。

 

まず、冒頭にあって天と地と万象が完成したとあります。その目に要した日数が六日で、次の七日目には休んだとあります。

 

 

神様と言えども疲れるんでしょうか?てっきり、24時間不眠不休で休みなんか取らずにいても、バリバリで元気溌剌だとばっかりい思ってましたが。リゲインなんか飲んでねえ。

 

 

 

 

 

後に、モーセが神から授かったとされ十戒にも、七日目には休息せよとありますねえ。これを「安息日」と言います。

 

 

これは日曜日かと言いますと、実は土曜日です。ユダヤ教では日曜日は始まりの日なのであります。

 

もっと言いますと、正確には金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日なのであります。

 

 

 

花金で、パーっと行こうぜ、パーっと!

 

 

なーんて言う方もいるでしょうが、この安息日は神聖なる日にして一切の仕事はしてはならないとされます。

 

 

後に、イエスがこの日に病人を癒し、その弟子は麦の穂をつまんで口にいれていたら、いずれも「神聖なる安息日に働いた」などと、難癖をつけられてましたねえ。

 

 

そうはいったって、お産とか、急病人が出たらどーするんだ、ということにもなりますが、そこはちゃんと融通が利くようです。

イエスと弟子たちに難癖をつけてきたのは、つまるところ言うなれば、陰険な嫌がらせみたいなものです。

 

 

例えばの話、電車などのシルバーシートは、あくまで「優先席」でして、その対象の方がいたら健康な方は譲ればいい。

 

しかし、車内が空いており、たまたまそこに座ったら、「おまえ、そこは優先席だぞ。座るな」なんてねえ。

 

 

 

いるんですよ、このように杓子定規でしか物事を考えない方が。

 

 

 

さて、第二章にも人間創造の話があります。第一章の補足説明ということなんでしょうか。

 

 

土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた

 

 

『創世記』が書かれたのはバビロニア捕囚の時代だとされまして、この話はメソポタミアに既にあった人間起源神話を土台にしたものではないかと推測できます。

 

こちらは紀元前2000年頃のウル王朝滅亡時の粘土板に記されていたとされますが、実際はもっと古いものだとされます。

 

それによれば、神は泥をこねて人間を造ったとあります。

 

 

 

 

 

 

なお、「アダム」という名前ですが「アダマー(大地)」を示す言葉がありまして、つまり大地から造られたがゆえに「アダム」と言うようです。

 

してこのアダム、最初の人間ではありますが、まだ性区分はなく(※ 女がまだいない以上、男であるはずもない)、いっそ神と同じく無性(※ 神は男性だという主張もありますが)、あるいは両性具有のような存在と言えるでしょう。

 

 

また、「息を吹き入れる」とは魂、つまり霊魂を入れるという意味だと思います。

 

ちなみに、この魂が吹き入れられていない状態をゴーレムという名の泥人形だという説があります。

 

 

 

 

こちらは、ドラゴンクエストに登場するゴーレム

 

 

 

いっそ、その魂が抜けだした、つまり霊体離脱で、魂がどこかに遊びに行って(?)いる時、残された肉体、というものになりますかねえ。

 

ここでは、心身二元論が展開されております。

 

しかし、この「息」はそもそも「霊魂」ではないという説もあります。

 

 

 

もしかしたら電池とか?

 

いやいや、充電したんだろう、なんてねえ。

 

 

 

して、もし、霊魂なら、例えば死んでも霊魂は不滅で、肉体から抜け出して、キリスト教でいえばその魂のまま、最後の審判を待つことになるのか?

 

しかし、パウロなんかだと、彼の語る、そのイエスの復活した様子からして、魂の不滅を説くよりも、肉体を持ったままの復活を説いているようにも思われます。笑えるのは、その復活した肉体はサランラップのようなものでコーディングされ永久に存在できるのだ、なんて説もあるようです。

 

 

さて、アダムが、その名からして大地、つまり土から造られたとするなら、再び大地に帰るとも考えられます。

 

 

大地より生まれ、再び大地に帰る

 

 

 

と、これはアメリカ先住民の言葉ですが、同時に仏教思想にも通じているようにも思います。

 

 

ちなみに、仏教の場合、その「」が無くなるということでしょう。

 

砂場で作った山や建物を壊せば、また、ただの砂に戻るがごとくですねえ。つまり「存在」そのものが無になるということではないわけです。色即是空、空即是色、と。

 

 

して、もし、先祖供養が大事だと説くなら、アダムは人間のご先祖様となりますから戒名なんか付けた位牌を置いて、お線香を上げなくてはいけないのか。

 

 

 

なお、同じ『創世記』の中にある「ヨブ記」においても、全てを失ったヨブが語ることにも表れております。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」なんて言っております。

 

 

確か、ユダヤでは生まれたばかりの赤ちゃんを大地に置くという風習があると聞いたことがあります。

日本にもあった、という説もあります。

 

 

 

いやー、それにしても、なかなか深い死生観ですねえ。

 

死は、それをもって、どこかに行くというのではなく、少なくとも肉体は、その元々在った場所に帰るというのであります。

 

日本でも「死者が土に帰る」なんていうことがあります。

 

 

ただし、最近の火葬場では、きわめて高温で処理するため化学反応のせいなのか、土に埋めてもなかなか土に戻ってゆかない、なんていわれます。

 

また、そうでなくとも、何百万年も前の、原人や猿人の骨が出土するということは、なかなか土に帰ることが出来なケースもあるということか。

 

 

土に帰るというのもなかなかむずかしいようで。

 

 

中には、進んで(?)帰らないという困った方もいますからねえ。

 

 

幽霊とか、ゾンビとか・・・。

 

 

 

た、頼むから帰ってくれ!

 

 

と。

 

 

 

 

思い出すのは、『猿の手』という、イギリスはW・W/ジェイコブスのショート・ホラーです。

 

 

 

老夫婦が、たまたま手に入れた三つの願いが叶うという猿(ミイラ)の手。

 

金持ちになりたいと願ったら、息子が勤める工場で事故に遭い、そのために高額の見舞金が手に入ることに。

 

 

残りの願いは後二つ。

 

息子のことが諦めきれない妻は、「息子を生き返らせてほしい」と願います。

 

 

と、その夜更け、老夫婦の家の戸を強くノックする音が。

 

喜び勇んで戸を開けようとする妻を、夫が止めます。

 

確かに金持ちになりたいと願ったらそうなった。しかし、それは息子の死との引き換えだった。

 

 

その息子が生き返ったとするなら・・・、今度はそれがゆえに何が起こる?

 

 

帰ってくれ!」夫は、そう願って、戸口に向かって言います。

 

すると、ピタリと戸を叩く音はなくなったのだとか。

 

 

得るものがあれば、失うものがある」なんて言いますが、そうそううまい話があるわけがない。

 

 

 

で、ですよ。例えばの話、あっしがイエスの弟子の一人で(※隠れ弟子)で、イエスが磔刑となって死んだその日に、たまたまこのような猿の手にですねえ、つい、「イエスの大将が復活しますように」なんて願ったとしてですよ。

 

 

そしたら、草木も眠る丑三つ時なんかに、戸がノックされたらどーしましょう。

 

 

ディズニーランドのホーンテッドマンションの廊下、今にも叩き割られそうなの扉のようにねえ。

 

 

 

 

ビビるでしょうねえ。

 

 

んで、

 

 

 

 

 

 

 

た、た、頼むから、やっぱり帰ってくれ!

 

 

 

なーんて言ってしまいそうな気がします。

 

 

 

へたれ、です。