天皇であります。
先の東北大震災の時、時の天皇、皇后は被災地に行き、避難所で不安に過ごす方に気さくに声を掛けていた姿は国内外からの数多くの称賛があったといいます。
国王とも言っていい天皇が、一般庶民と膝突き合わせて話をするなんて考えられない、信じられない
日本人は幸せだ。羨ましい限りだ。自分もこういう国に生まれたかった
なーんて海外の方の言葉が印象的でした。
天皇自身が、極力、こういった被災地に行って励ましの言葉をかけたいと言っておられたとも言います。
いやー、もう、畏れ多くて、かたじけなくて涙が出てきます。
さて、今回は、日本国憲法においては、天皇その存在をどのように位置づけ、意味づけているのかを考えてみたいと思います。
その第一条にあっては「日本国、そして日本国民統合の象徴」としております。
「象徴」とは「シンボル」という意味であり、日本の国旗もまた日本という国のシンボルであります。
そのようなシンボルを辱めないように、我々国民もまた襟を正し、誠実に生きてゆくべきなのであります。
まあ、中には、それに泥を塗るようなアホウもおりますが。
海外から来た方が「日本は、どこにっても清潔で、ゴミなんか落ちていない!」なんて称賛してくれているのに、平気でタバコやジュースの空き缶、ペットボトルなんかを道端や公園なんかに捨てる奴はもう、国賊、非国民ですねえ。
捨てられるものの気持ちになってみて。その時だけチヤホヤして
あとは、はい、さようならって、ねえ
だいたい男は・・・
って、なんか論旨がずれているような。
以下、テキストは『新基本法コンメンタール 憲法』(日本評論社)の「第一章 天皇」です。これに沿って考えてみます。
まず「象徴天皇制」なるものが出てきます。して、これこそが日本国憲法(※ 以下、新法)においての天皇の位置づけだとされます。
これは大日本国憲法(※ 以下、旧法)に定められていた「神権天皇制」と対比されるものだとか。
旧法では、君主主権であり、天皇という日本独自の存在を神と捉えてのものであります。
新法では、これが国民主権に変わります。
しかし、国民主権になってもなお、天皇は存在し、新法にあっても独自の位置づけがなされております。
政体変更で、国王や、君主が退位したり、あるいは強制的に排除されたりして、民主制に移行することは歴史上、よくありましたが、しかし現在でも王国としてある国々も少なくありません。
ヨーロッパならイギリス、オランダ、スペインが、アジアならタイやブータン、中東ならサウジアラビア、オマーンなどがあります。そして、その多くがイギリスの王のように「君臨すれども統治せず」というようになっているように思います。
日本もまた、新法においては第1条から8条までがこれを示すものとなっております。
第1条の後半には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」のであります。
んなこと言ったって、オレはこの憲法はできた時には生まれていなかったのに、否応なくこれをみとめろってか?
なーんていう方がいるかもしれませんが、文句があるなら改正してみろ、ってねえ。
特別出演 『天才バカボン』の親父
して、この天皇の位置づけ、意味づけをどう解釈するか。
一つは、新法はあくまで旧法の改正という形、変更手続きを取っております。ゆえに連続的なものにならざるを得なかったとされます。これが、旧法を完全に廃し、まったく新しい憲法を作るということであったら、どうなっていたんでしょう。
次に、敗戦、そして占領という事態のもと、日本側の憲法起草者達は「国体維持」に拘ったからだとされます。
いくら民主主権の国になるからといって、それまで受け継がれてきた日本という国の独自の国家体制を根底からひっくり返すとしたら混乱に陥り、収拾がつかなくなると考えたのか。
ちなみに、日本国憲法(新法)成立をドキュメントタッチで描いたのが、小島襄の『史録 日本国憲法』でありまして、その生々しい舞台裏にスポットを当てたものでしょう。あっし個人は名著だと思っております。
よく、「日本国憲法はアメリカに押し付けられたもの」なんて言う方もおりますが、この本を読む限り、決してそんなこともないように思います。
まして、この憲法が制定された時、日本人の大半はこれを喜んで受け入れたともされます。
まあ、時代が経つにつれ、現実的にはそぐわない内容もないとは言いませんが、それを改正するか否かはまた別の問題となります。
さて、旧法にあっては神話(記紀神話・『古事記』、『日本書紀』など)に基づいて天皇統治の正当性を主張するものでした。
西洋には「王権神授説」がありまして、「王権は神から与えられたもの」とされますが、日本の場合は、天皇は、その神の末裔とされますからねえ。
まあ、日本の神権天皇制の場合、実質的な政治はその周囲を固めていた為政者が行っていたわけですけどねえ。
して、この神権天皇制を覆し、国民主権の体制に持ってゆくにあって、旧法にあってはその国体は変更できない、つまりは、その憲法の根幹をなすものであったわけですが、これをアクロバット的な強引な論法によって、改正というよりは、いっそ革命的なものだとされました。法の世界では、これを「八月革命」説というのだそうです。
なお、新法にあっては、国民の総意に基づくなら、天皇の地位は変更できるとしても、逆に国民主権を否定し、天皇主権に戻すということはできないとされます。
中には、国民としてその責任を負うよりも、いっそ、天皇なり、君主なり、為政者に全てお任せして、面倒な責任から逃れたい、なんて方だっているかもしれない。
この辺りの大衆心理を、ナチズムに傾倒していったドイツを例に冷徹に考察したのが、社会心理学者のエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』であります。
例えばの話、優秀だからとその人間を管理職に昇進させたら、自分の仕事よりも部下の管理責任の方が重くのしかかり、自分にはそういう能力がないから、元の地位に戻してほしいと言った、という方がいたそうです。
例えばの話、技術職で優れた能力を発揮する方が、管理能力もまた優秀というわけでもないはずです。
さてさて、「自由」というものも、「主権」というものも、確かに聞こえはいいですが、しかし、それに伴って責任も生ずるわけです。
かつて、アメリカの奴隷を使ていたある農園で、時代の流れもあって、奴隷を開放するとしたところ、つまり自由を与えたところ、なんと暴動が起こった、という話があります。
奴隷が言うには、奴隷とは言え、今まで生活の保障があったわけで何とか生きて行けたのに、いきなり自由になったところで、生活してゆくための仕事があるわけでも、住む家があるわけでもなく、まして帰るところなど、とっくに失っており、これでは路頭に迷うだけ、ということであったとか。
話を戻しますに、「自由」、「国民主権」で、自ら重い責任を負うくらいなら、いっそすべてを為政者にお任せしてしまった方が楽だと。きっと「悪いようにはしない」だろう。
ロシアのプーチンを支持しているという、ロシアの女性が「いろいろ言われているけど、プーチンはよくやっている」なんて言っている動画をみたことがありますが、つまるところ、自分自身の意見や考えは持たず、ただもう上の言うことに従っていればいい、ということなんでしょうか。
思うに、いざとなれば「あれは、プーチンが一人で勝手にやったこと」なんて言うような気もします。ドイツ人のヒトラーに対する感情も似たようなものではなかったのか。
して、考えてみるに、やはり、自由にしろ、国民主権にしろ、やっぱり重いですねえ。
「いっそ、楽になっちまうか」という気持ちもないわけではありません。しかし、そうすると、もう、例えば為政者が暴走しても止められなくなってしまうわけです。
日本が、あの向こう見ずな戦争に進んでいったのも、軍部の暴走だと言われますが、それを許してしまうというよりも、止められないという政治体制になっていたとも言えます。
そうはならないように、しっかりと責任を・・・。
そうよ、ちゃんと責任取ってよ。男らしく
って、あんたはまだいたのか?