モーセであります。旧約聖書は『創世記』の次に『出エジプト記』がありまして、その主人公ともいう方です。『創世記』は神話めいておりますが、この『出エジプト記』からは、次第に歴史書のようになってゆきます。ただ、そこの書かれているような史実が実際にあったのか否かはよくわかっていないようです。
話は、飢饉のためにせっかく手に入れたカナンの地を放棄し、エジプトに逃れたユダヤ民族の中に、彼らを導く英雄ともなるモーセが誕生するところから始まります。
当時のエジプトというのは実は多民族国家で、ユダヤ人の他にも様々な民族が流入していたともされますが、特にこのユダヤ民族はこの地にあって子孫がどんどん増えて行き、これを面白く思わなかったエジプトの王は彼らに重い苦役を追わせます。
ピラミッドの建設に当たらせたともされます。
王はまた、これ以上ユダヤ民族を増やさぬためにと彼らに男の子が生まれたら、ナイル川に投げ込め、なんて命令していたのだとか。
そんな男の子の中に、後に「モーセ(引き出す ー 転じて救済者という意味)」と名付けられる子がいますが、親はその子を葦で作った籠に入れてナイル川の岸辺に置きます。わけあって育てられないが、運が良ければだれかに拾われ育つかもしれないと望んだのでしょう。
この話は、日本神話において、伊邪那岐、伊邪那美の男神と女神が、最初に生まれた水蛭子神を、やはり葦の舟に乗せて流してしまうものとよく似ております。
同じく、日本の昔話における桃太郎も、川の上流から流れてきた大きな桃を二つに割ったら、そこから出てきたことになってます。
なお、水蛭子神は後に恵比寿神となっておりますし、桃太郎は成長して鬼退治に行きます。
余談ながら、桃太郎の話の方は、本当は流れてきた桃を食ったじー様、ばー様が若返った結果として、二人の間に生まれた子だったようですが。
この点、金太郎は、その母親が山姥だとされてますけどねえ。
いずれも、後に神とか英雄になるという方の生まれというのは尋常なものではないようです。
言わずもがなですが、イエスもまた同じです。
さて、モーセは、たまたまナイル川の岸辺にいたエジプトの王の娘に見つけられ、彼女に拾われます。
捨て犬、捨て猫もそうですが、これはもう、拾ってくれた人間次第で大きく運命が変わるもの。
モーセもまた、いい人に拾われたというべきか。まあ、神の采配があった、と考えることもできるかもしれませんが。
成長したモーセは、ある時、神に遭遇します。まさに未知との遭遇です。
それも、目の前に燃える柴の木が現れた、ってんですから腰を抜かしたでしょう。
モーセと燃える柴の木
日本なんかですと、神仏はその方の夢の中に現れることが多いのですが、このように現実世界に現れることは「顕現」なんて言います。
しかし、その場合、はっきりとした形、こと人間によく似た形象として現れることが多いように思います。修験道の祖とも言われる役小角(えんのおづぬ)の前には蔵王権現なる神が現れたとか。
これに対し、モーセの前の神は、というか、ただ柴の木が燃えていて、そこから声がしたということだけですからねえ。
この神様はシャイなのか。もう、恥ずかしがり屋さんなんだから・・・。
んで、
「えーい、ひかえよ。靴を脱げ。頭が高い」なんてねえ。
いっそ、精進潔斎しろ、手水舎で手と口を洗って来い、なんてことまで言ったかどうかは知りませんが威厳があります。ただの山火事(?)ではなかったのであります。
モーセとすれば、これはもう、恐れ入谷の鬼子母神で、ただひたすら恐縮するしかない。
「名刺・・・、なんかもらえませんよねえ。せめてお名前だけでも」と尋ねると「わたしはあってある者」なんて、いっそ、もう、わけのわかんねーことを言ってます。
これをヘブライ語で言うと「YHWH」で、これが「ヤハウェ」ということになります。
して、この神が言うには、モーセがユダヤ民族のリーダーとなり、苦渋に満ちた今のエジプトの地から脱し、自分が与えたカナンの地に戻れ、と。
そこでモーセは「すべては神様の思し召しのままに」、「インシャラー」なーんて言ったかどうかは知りませんが、ユダヤ民族を率いてエジプトの地から脱出を図ります。
なお、実際にはすべてのユダヤ民族がそうしたというわけではなく、既にこの地に根を下ろし、この地にとどまる人々もいたようです。
一方、エジプトの王、つまりファラオ(※ ラムセス2世だとされます)からすれば、これはもう謀反としか言いようがない。ロシアのプーチンさんのように「こいつらはネオナチだ!」なんて言ったかどうかは知りませんが、軍勢をもって追いかけてきます。
さあ、ここにおきまして映画にもなった『十戒』のもっとも有名なシーンとなります。あの、海が真っ二つに分かれるというものですねえ。
かつて、日本には『大魔神』という映画がありましたが、ここでも同じようなシーンが使われておりました。
海を真っ二つに割る大魔神
キリスト教会の児童洗脳システム・日曜学校に通っていたあっしは、このシーンを見て、思わず「大魔神はモーセだったのか!?」なーんてねえ。
たいして役にも立たんクソつまらん知識が、意外なところで役にたつという・・・。
なお、余談ですが、西原理恵子の文芸春秋漫画賞を受賞した『ぼくんち』の中では、弟がヤク中のおっさん(※ アブナイお薬を使って錯乱状態を起こすような方)に捕まったと知った姉が、出刃包丁を逆手(※ 順手とは違い、これで相手を刺すと、えぐるような形になるため、致命傷にいたることも多く、きわめて危険で、刑法では傷害罪ではなく殺人罪が適用される場合もあるのだとか)に持って、それを包帯でぐるぐる巻いて固定し、大通りをこのアル中に向かって行った時、周囲の人々が左右に避け、以来その通りは「モーセ通り」となった、なんて話がありました。
これまた、本当かどうかは知りませんが、大阪のヤーさんの車(※ もちろんベンツです)が繁華街で渋滞に巻き込まれた時は、クラクションを鳴らすと、まさにモーセ一行が通ったように、他の車が左右に寄せる、なんて話を聞いたことがあります。
よい子は、ドス(短刀)を逆手に持ったり、渋滞だからといってクラクションを鳴したりしてはいけません。
(しねーよ!)
さてさて、このような海が割れるというような話は、いかにも胡散臭いものですが、これについては興味深い説があります。
「北方ルート説」というもので、モーセ達は実際には、北側の地中海に面した浅瀬を通って行ったというのであります。
さて、なんとかエジプトからの脱出に成功したモーセ一行は、このシナイ半島で40年間もさ迷ったとされます。さっさとカナンの地に行けばいいのにと思います。
もしかしたら、そこには既に別の人々が住み着いていて、そうそう簡単には明け渡してくれそうもなかったのか。
ここにおいて、モーセは一人シナイ山に登り、神の啓示を得ることとします。
映画『十戒』
この時に、神から与えられたのが、あの「十戒」であります。
集団、社会生活を行うにあたっての、さらにはユダヤ民族としての生活規範、法であります。
1.神はヤハウェの神のみ。他は一切認めません
2.偶像を崇拝してはいけません
と、ここでツッコミをいれましょう。
プロテスタントはともかく、カトリックは、聖母マリアや聖人の像をあがめているではないか。同じく正教ではイコン(宗教画)を崇拝しているではないか。そこんとこは、どーなんだ、と。
なんなら公会議の議題として取り上げて・・・、いや、取り上げてもらえないでしょうが。
3.主の名をむやみに唱えるな
これは、祈りなどにおいて用いるのはよいが、適当な時、所で使うな、ということのようです。
えっ、そーなの。じゃあ、あの、「Oh My GOd!」なんてのも不可!?なんてこった!
4.6日働き、7日目は休め。これを安息日とする
これが、後には週6日制になるわけですねえ。月火水木金土、そして日はお休み。
ちなみに、旧日本海軍は「月月火水木金金」の勤務であったとか。
5.父母を敬え
6.殺すな
5は、いずこにおいても言われるようなこと。6は、あくまで人間が対象です。それも仲間、味方であって、敵はかまわない、ということらしいです。
7.姦淫禁止
不倫はもちろん、自由恋愛も禁止ということか。
8.盗むな
9.偽証するな
まあ、当然のことでしょう。
10.他人の物(※ 奥さんもだそうです)を羨むな
なお、モーセはシナイ山に40日間籠っていたとされます。
この40日は、後にイエスが荒野で修行したとされる日数と同じであります。ついでに言えば、モーセ一行がさ迷っていたのは40年間です。40という数字がお好きなようです。
そして、モーセがようやくにして下山すると、なんとユダヤ人の中には異教の神々を拝むような輩がいたのだとか。
これに激怒したモーセは、彼らの拝んでいた金の牡牛を火に投じ、拝んでいた人々を3000人も殺したとされます。
いっそ、もう鬼です。怒りの大魔神です。
ミケランジェロ 怒りの(?)モーセ像 角が生えてます
と、これはミケランジェロが勘違いしたのだとされます。
実は、モーセは神と交わったためになのか、「顔が光っていた」と書いてあったのですが「顔が光る」と「角」を表すヘブライ語がよく似ていたため、間違ったとされます。
いずれにしても、どうもこの方気の短い方であったようです。