あやしいキリスト教 なぜキリスト教が爆発的に広がったのか? 理由は、金がかからなかったから!? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

とある新興宗教の教祖夫人の何気なく漏らしたであろう言葉が印象的です。

 

 

宗教って儲かるんです

 

 

 

 

 

 

宗教法人は言うまでもなく営利法人ではないはずです。

 

「宗教は儲かる」ということは、逆に言いますと「宗教は金がかかる」ということになるのか。

 

 

旧統一教会に限らず、多額のお布施や寄付を要求するという教団もあるといいます。家一軒売り払ってお布施をしたという信者が絶賛されたりもする。

 

300万円もする教祖の像を買わせるという宗教団体もあったとか。

 

 

あっしの実家も、菩提寺の本堂や庫裏の改築だといって、かなり高額な寄付を求められたことがあります。まあ、確かに葬儀や法事ではお世話になっているとしても、今にもつぶれそうなボロ寺でもいいとは言いませんが、絢爛豪華な本堂にして欲しいと思っていたわけでもなし。

 

 

さらに言いますと、あっしの叔父は生まれ故郷を出て新たな地で土地を買い家を建てましたが、その叔父が生前から「実家は~宗であったから、葬儀はこの地にあるその宗派の寺でして欲しい」ということであったため、その宗派の寺に話を持ってゆくと、極めて高額のお布施を要求されたといいます。

 

その寺の住職が言うには、古くからの檀家は長年にわたってお布施をしてきているが、新規に檀家になるには相応のお布施をお願いしたい、とのことであったとか。

 

そういったお布施が、いわゆる墓地の管理や寺の維持運営費に充てられるというのはわかります。

 

しかし、あえて言えばただ葬儀や法事でお経をあげてもらうだけのことなのに、ボッタクリというような気もします。

 

(※ 叔父の墓は、その寺の管理する霊園ではなく、市営の霊園にあります)

 

 

神社でも我々は賽銭を捧げますが、このような金銭となったのはそれほど古くからのことではなく、元々は農産物や魚介類を捧げていたようです。

 

要は神様に対し、人間の側から誠意を示すわけで、いっそ、精進潔斎するとか、をするだけでも十分ではないかとも思います。

 

大きな神社、有名神社などですと、護符やお守り、縁起物、おみくじなども売りますから、そういうもので十分に管理運営費はまかなえるのではないのか。個人的な祈願なども受け付けてますし。

 

 

以前、とある宗教学者がまっとうな宗教と怪しげな宗教の大きな違いとして、「怪しげな宗教は、たいてい金がかかる」なんて言ってまして、これには笑いました。

 


 

 

 

信者から集めた金で、アメリカはラスベガスのカジノでギャンブル三昧をしていた、なんて新興宗教の教祖様もいましたが。

 

 

さてさて、キリスト教はどうかと言いますと、あっし自身、若干ながら関わった経験から言いますと礼拝には「献金」という、「気持ち程度」のお金を出すこともありましたが、ことさら多額のお布施や寄付なんてものを要求された記憶はありません。

 

そりゃ、まあ、出せば拒絶はしないでしょうが、さりとて要求することはなかったと思います。(※ あっしが関わった日本聖公会に限ってのことですが)

 

 

実は、なぜにキリスト教がこのような巨大宗教に発展したのか、という疑問を以前からもっておりましたが、どうも、この「金のかからない」宗教ということが、その成立当初から魅力的ではなかったかと、新約聖書学者の田川建三センセは言っております。

 

 

パウロなどが、キリスト教、というか、彼らの段階では「ユダヤ教イエス派」といった、いっそユダヤ教に近いものを、いわゆる異邦人(非ユダヤ人)に説いておりましたのは、主にローマ帝国領内でして、そこにはユダヤ人はもちろん、多種多様な民族が混在していたとされます。

 

それぞれ、自分たちの民族の宗教(民族宗教)を持っていたようですが、なんせ、そのように異民族が混然となっている状態ではそういうものに拘るという方もそれほど多くはなく、「何だかよくわからんが、信じれば救われる」というパウロ達の説いていたことは魅力的に思われたのではないかとされます。

 

 

また、その説く教えには「隣人愛」とか「平等(※ 神の前にあっては、ということ)」という、誰にも受け入れられるようなものもあったために人気が出てきたとも。

 

 

しかし、何よりもインパクトがあったとされるのが、

 

 

無料! ええ、ただですよ。無料で誰もが救われるんです!

 

 

 

ということだったとか。

 

 

まあねえ。しかし「ただより高いものはない」なんて言いますけどねえ。

 

チラシとかネット広告で「無料」なんてうたっているものは、ちょっと怪しい、というのが一般的な感覚ではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

繁華街なんかで、ねずみ男みて―な顔した、怪しげなおっさんが、怪しげなキャバクラの前で、

 

 

可愛い子いるよ

今なら新規開店キャンペーン中で、見るだけなら無料よ、無料!

 

 

なーんて言われて、ホイホイとは入っていったら、いきなり、目の前にお通しと水割りなんか出されて、

 

 

 

えっ、お通しと水割りセットで10万円!?

 

 

なーんてことになっても、これは自己責任ということにもなりかねないような。

 

 

 

さすがに、キリスト教は、そんなあくどいことはしません。

 

して、なぜ無料かといいますと、本来であれば誰しもが自分達の持つ罪を償うために、それぞれが神前に捧げものをしなくてはいけないんだが、

 

 

うちの場合はねえ。メシアであるイエス様がねえ。みんなの分を一手に引き受けてくれたの

そして十字架に掛かって死んでくれたの。自分自身を捧げものにしてねえ

ありがたいことなのよ

 

 

なーんてパウロ達は説いていたらしいです。

 

まして、もう、それだけで、後はなーんにも要らないのだ、とも。

 

 

当時の様々な宗教の慣例としては、それこそ神への捧げものは一回限り、なんてことはなかったとされます。

 

現代の我々だって、例えば神社仏閣にお詣りに行くごとに賽銭(※ 神社。寺院は「浄財」と言います)を捧げてます。昔、やったから、以後はしなくていい、なんてことはないはずです。

 

ちなみに、洗礼者ヨハネも、悔い改めの洗礼はたった一度でいい、なんて説いていたとされます。

 

 

考えてみるに、罪を犯したと感じる度に神殿に行って、子羊などの犠牲となる動物の捧げものを買って償いをしなくてはならない、なんてなったら、それこそ多額の金がかかるでしょう。

 

 

 

この時代にも「宗教は金がかかる」(※ → 宗教は儲かる?)なんてことがあったというべきか。

 

 

して、それをしないとどうなるか。

 

 

 

そんな罪深いままでいていいのか。神の罰を受けるよ

 

 

なーんて脅かされたら、これはもう素直に従うしかない。

 

 

 

 

 

 

悪徳商法の一つに、ありもしないうそを並べて不安をあおり、物を買わせるというものがあります。(不安商法、といいます)

 

 

ちなみに、あっしの家に周辺では、いきなりリフォーム会社(?)の人間がやって来て、「お宅の屋根、あれ、修繕しないと雨漏りがするよ」なんて脅かすという話がありました。たまたま、とある家では、別の懇意にしているリフォーム会社の方がいたので、念のためにと自宅の屋根に異常がないかどうかを確認してもらうに、そんな必要性は全くないと言われたそうです。

 

白アリ駆除とか、耐震構造とするため、なんてことを理由に、その必要もないのにリフォーム契約を結ばせる、なんて手口もあるのだとか。

 

 

まあ、今も昔も、人の不安を煽り立て金をふんだくろうということがあった、ということなのか。

 

 

なお、これはキリスト教ではなく、もっと、ずっと小さな、信者の数とて数十人という程度の弱小(?)新興宗教の教祖様の話だそうですが、信者が借金で首が回らなくなってしまったと相談すると、なんと、この信者と一緒に債権者の所に謝りに行ってくれたのだとか。

 

 

こういう新興宗教なら、なんとなく入信してもいいような気もしますねえ。