あやしいキリスト教 イエスの死を無駄にするな。いっそ、自ら生贄の子羊になったとしようという屁理屈 | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

講釈師、見てきたような嘘を言い」なんて言いますが、福音書の語るイエスの末期、そしてその言葉を四つの福音書はどのようなものとしているのか。

 

 

まず、最も古いマルコ書です。

 

 

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ

(わが神、わが神、なぜ、私をお見捨てになったのですか)

 

マタイ書もまた忠実にマルコ書に従っております。

 

 

 

 

 

これがルカ書ですと、

 

父よ、私の霊を御手にゆだねます

 

 

最後にヨハネ書では、

 

成し遂げられた

 

 

福音書の語るイエス像を総合するなら、そしてその最も古いマルコ書、比較的史実に忠実ではないかとされるマルコ書に沿うなら、「喧嘩上等!」と、当時のユダヤ社会の宗教規範に反旗を掲げていたイエスが、あるいはそうなることも覚悟していたとはいえ、言うなればその道の途上にて力尽き無念の死を迎えたということであり、マルコ書、そしてマタイ書の伝える末期のイエスこそが、しっくりくるように思います。

 

 

ルカ書は、悟りきったようなイエスが黙って自らの死をそのまま受け入れようとしているようにも取れます。

 

ヨハネ書になりますと、イエスはそもそも何を成し遂げたのだとツッコミをいれたくもなります。

 

 

マルコやマタイでは、まだ、どこか人間臭いですが、ルカやヨハネともなりますと、もはや「神の子」としての風格(?)すら漂います。

 

 

さて、イエスの死をその弟子やパウロが、どのように解釈し意味づけたのかを見てきましたが、今回は矢内原忠雄の『キリスト教入門』(角川書店)にある「キリスト教早わかり ー 罪のあがない」に沿って考えてみたいと思います。

 

 

 

まず贖罪(しょくざい)というものがでてきます。キリスト教の教義の核心の一つともいうべきものでしょう。

 

矢内原センセは、この「贖罪・あがない」について、「奴隷の身代金を払って奴隷を買い戻すこと」なんて言ってます。続けて、(日本でいうなら)「芸者のために前借り金を払ってその女を自由の身にする」ことだとしております。

 

 

あえて言わせてもらいますと、矢内原センセは「芸者」と「遊女」を混同されているように思います。センセの言うような意味なら「遊女」の方が正しいと思います。「芸者」というのは、本来は文字通り様々な芸を持って酒席に侍る女性のことで、中には自前といって、借金などない方もいたとされますし、芸者がみな遊女と同じような職種ということではないのであります。

 

 

まあ、それはそれとして、センセによれば「我々は誰しもが罪の奴隷になっているのだ」としております。

 

 

ムード音楽の『シバの女王』の歌詞の中には、「わたしは、あなたの愛の奴隷」なんてのがありましたが、そしてこちらは何とも切なそうな女心を歌ったもののようですが、「罪の奴隷」と言われましても、少なくとも我々日本人には、あまりピンときません。

 

 

ソロモン王に一目惚れするも、自分はシバ族の女王。国を捨てるわけにはゆかない、と(涙)

 

 

 

 

なんせ、日本の神道が説く人間観ですと、そもそも人間は清浄なる存在として生まれるが、生きるにあっては往々にしてケガレ(汚れ・穢れ)が付着してしまうため、時々は精進潔斎、あるいは禊(みそぎ)なんかをしてこのケガレを払う(祓う)必要があるとしております。

 

 

中国の孟子の説いた性善説と同じですねえ。

 

たとえ、ケガレても、いっそ悪に染まっても、それはあくまで外側であり、んなもなー洗い流せばきれいになる、と。

 

 

汚職なんかして議員を辞職した先生が、しばらくすると「禊は済んだ」なんて、また(性懲りもなく)復活してきますからねえ。

べつに「悔い改め」なんかしなくてもいい?

 

 

「罪の奴隷になっている」というのは、これ前にも書きましたが人類の祖であるアダムとイブが犯したとされる「原罪」のことでしょう。アウグスチヌスなんて方が「この罪は遺伝する」なんて、わけのわかんねーこと言ったもので、これが今日では当然のものになってますが。

 

そーいう遺伝物質(?)を持っているとされる現代の我々も、時としては、悪魔(?)に耳元で囁かれたりしますと、つい良からぬことをしてしまう。

 

 

いーんだよ。信号が赤といったって、車も走ってなきゃ、他に誰もいないじゃないか

渡っちまえよ。ここの信号、特に長いんだしさ

 

 

 

天網恢恢、疎にして漏らさず」とか「誰も見ていなくても、お天道様が見ている」なんて言って、律儀に生きておられる方もいますけどねえ。

 

植木等の『スーダラ節』の一節に、「わかっちゃいるけど、やめられない」というものがありますが、植木等の、御父上であった浄土真宗の偉い坊さんなんぞは「これこそ、人間の悲しい性質(さが)。それを受け入れて生きてゆくしかない」なんて言っていたそうですが、多くの人間はこのように、それこそ親鸞さんの説くように生きてゆくほかないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、キリスト教は違う。少なくとも矢内原センセはそう言います。

 

 

そういう罪をイエスが全て引き受けてくれた、代わりにその罰を受けてくれた、だから、もう、自分達は、自分達の罪のことで悩む必要はないのだ、と。

 

 

まあ、これはパウロが言ったことですけどねえ。

 

 

しかしながら、福音書を素直に読んでいても、イエス自身が特にそんなことを言っているようには思われません。

 

だいたい、もし、マルコ書(マタイ書)の伝えるイエスの末期こそ、史実に近いものであったとするなら、イエスは無念さを口にしております。嘆いております。

 

 

まあ、「なんで、おれが全人類の罪を一人で負うわなきゃならねーんだよ。冗談じゃねーぞ」なんてことで、嘆いていたのかもしれませんが、さりとて、そんな経緯については何も語られておりません。

 

 

となれば、このような考え方は、やはりイエスの弟子達とパウロの「でっちあげ」でしょう。

 

それも、イエスその人の名誉のためというよりも、むしろ自分達を正当化するために、イエスの死を利用した、ようにも思われます。

 

 

イエスの死を無駄にはしない」というのであれば、イエスの言っていたことに従う、いっそイエスに続く、というならまだ話は分かります。マルコ書なんぞは、そのようにも読めます。イエスの復活にしても、たとえイエスが死んでも、その意志(遺志)を受け継いでゆくなら、そこにイエスが受け継がれてゆくはずで、それこそを復活としてもいいように思います。

 

 

イエスは死んでしまったが、しかし、それで終わらない。自分達の中にイエスが生きているのだ、と。

 

 

このように復活の意味を説く聖書学者もおります。

 

あっしも、この考えに共感するものです。

 

 

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だから、言ってるだろ。ねずみ男

お前もオレのように十字架を担げ

 

 

 

 

 

 

えっ、あ・・・いや、あの、あっしは

ゴホ、ゴホゴホ・・・・、か、身体が弱いもんで。最近は腰痛も

 

 

 

へたれ、です。