あやしい宗教学 女人禁制を考える 「女は穢れたものなのか」という問題 あえて言えば男もねえ・・・ | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

一般的には「忌(いみ)」というよりポリネシアの原住民が用いていた「~を(は)してはいけない」という「タブー」の方がよく知られております。専門的には「禁忌(きんき)」なんていうこともあります。

 

 

 

ちょっとだけよー。あんたも好きねえ

 

 

 

 

なーんてねえ。猫が・・・。

 

お客さん、ペットの猫にあまりべたべたしないでくださいね

 

 

 

 

 

(えっ、猫カフェの話!?)

 

 

 

 

さて、タブーとは共同体(社会)における個人の行動規範であります。ただし、社会秩序維持のためという名目のもと、為政者に都合よく作られるものもあるとされます。

 

 

皇居のある方角に足を向けて寝てはいけない、とか。

 

不敬罪になる!?

 

 

だって、それだと北枕になってしまう、なんてねえ。

 

いっそ、お尻を向けてもいけない、ともなると、これは住んでいる場所によっては大変でしょう。へたに寝返りも打てない。

 

 

 

よく知られているものに近親相姦(インセストタブー)があります。これなどは文化を超えてすべての人類に共通に見られます。

なお、このようなタブーは霊長類、ひいては哺乳類一般にも見られることから、生物学的な根拠があると考えられます。

 

実際、人間の場合ですと先天的異常を持って生まれる率が高いともされます。

 

 

 

さて、日本には「女人禁制」という慣習があります。さらには俗に「女は穢れたもの、不浄なるもの」なんてことも言われてきました。

 

 

 

奈良 大峰山の女人結界

 

 

 

 

なんですって!

あんた、そんなこと言っていいと思ってんの

 

 

 

いや、あの・・・、そう言われてきた、というのであって、あっしが言っているわけでは・・・。

 

 

既に中世では、「黒不浄(死)」、「赤不浄(女性の生理)」、「白不浄(お産)」なんてものがあったとされます。

 

このち、赤不浄と白不浄は、言うまでもなく女性に限られたものであることから、「女性は罪障深く、穢れたものゆえ、救われ難い」なんて説かれていたのだとされます。

 

して、仏教は華厳経の中に「女人地獄使」、「外面似菩薩、内心如夜叉」なんてのがあるのだとか。

 

 

地獄の使い、というのもすごいですが、外面は菩薩で心の中は夜叉というのもねえ。

 

 

ちなみに、これ、落語家の古今亭志ん生が落語の「まくら」でよく使ってました。

で、そう言ってるのはお釈迦様なんだから、文句はそっちに言ってくれ、とも。

 

 

 

 

 

 

映画『氷の微笑』を思い出します。

 

 

妖しい魅力で男を誘い・・・、

 

 

 

 

食っちまう!?

 

 

ねえ、おいしいのよ。食べてみない?

やーねえ・・・、あたしよ、あたし

 

 

 

ティントレット 『誘惑されるアダムとイブ』

 

 

 

 

旧約聖書は『創世記』アダムとイブのエピソードも思い浮かびます。

 

 

キリスト教は、このイブの、神の言いつけを守らなかったこと、さらにはアダムを巻き込んで(?)共犯関係にしたことによって、イブの末裔である女性一般を男性よりも罪深いものとしました。

 

 

この流れの延長線上に、中世の集団ヒステリー(狂気)ともいうべき、あの魔女狩りがあったともされます。

 

そうでなくとも、敬虔な男性修道士、聖職者の中には女性を嫌悪すべき存在として糾弾している方々も少なくなかったようです。

 

 

ただ、このような極端ともいうべき女性蔑視は、独身生活を貫かねばならない彼らの、男としての欲求の抑制が、フロイト流に言えば女性に対する非難となっていたのではないかと思います。投影心理ですねえ。

 

 

女は男を堕落させる」なんてことも言っていたらしいです。

 

 

 

これは、例えばですねえ。

 

 

 

 

 

あんな、かっこうで歩いてりゃ、こりゃもう、「いらっしゃーい」してると思うじゃないか

だから、男である、あっしだって、つい

 

で、悪いのは、あの女であって・・・。あれ、いっそ、罪深いよ。もう犯罪だろ

 

 

えっ、詳しい話は署で伺いますから、ご同行を、って・・・

 

 

 

心理学では、これを「他罰心理」なんて言います。言うなれば自己を正当化し、他者を悪く思うのであります。

 

 

して、こういう男は「けだもの」なんて言われますねえ。それこそ穢れた存在です。

 

満月の晩などに大量発生するともされております。

 

 

 

えー、話を戻しまして。

 

法華経」には「又女人身猶有五障」なんて言葉がありまして、然るにここにおける「五障」、つまり「女性には五つの障害がある」なんてものですが、釈迦自身ではなく、その死後ずっと後になって説かれたものされますが、思うに女性が解脱するには男性以上に障害があるという意味であったように思われますが、これを、

 

 

女性は穢れているので成仏できない、救われない

 

 

 

なんて解釈、曲解、つまり歪曲した解釈が、鎌倉時代にあると出てきたとされます。

 

他にも「血盆経」なるものがあり、これは、女性は月経血や産血を流すので不浄としているとします。

もっとも、この経を唱えれば救済してくれるとも。

 

 

まあ、この血盆経なるもの、中国で作られた「偽経」とされ、中国の道教の影響も色濃いものらしいです。

 

 

 

さて、キリスト教の聖書もそうですが、これは読む方によっていろんな解釈ができるものです。

 

例えば「(肉はいいが)血を食べてはいけない」という旧約聖書にある言葉を、「他人の血を入れる、つまり輸血」を「血を食べる」と同じ意味と考え、信者にこれを求めるエホバの証人がおります。

 

 

 

いずれにしても、聖書もそうですが、原典にそんな意味はないとされ、鎌倉時代に活躍した法然、親鸞、道元、そして日蓮もまた、このような考え方(解釈)には批判的であったといいます。

 

こと法然は、「女性は穢れているがゆえに成仏できないのではないか」と問う女性に「そんなことはない。たとえ、もし浄不浄があるといっても、見ようによって清くも見え、汚くも見えるもの。仏はそんなことは問題にしない。御仏(阿弥陀)にすがれば、誰でも救ってくれます

 

 

 

なーんて、女性が聞いたら思わず涙が出そうなことを言ってくれてます。

 

思わず、念仏を唱えたくもなります。

 

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

 

 

さてさて、このように女性を穢れたものとするのは、つまり、仏教の説く、というか、かなり歪んだ解釈であったようですが、これが神道にも影響を与えたとされます。

 

神道における神は清らかで不浄なるものを嫌うとされますが、人間の排泄物、つまり糞便、汗、切った髪、爪、さらには血もそれに該当するとされます。

 

血について言えば、男だって怪我をして傷つき、血を流すこともあるわけで、特に女性だけを差別するということでもないようです。

 

なお、「」には、もう一つ「斎(いみ)」というものがあり、使い分けていたとされますが、「斎み」の方は「怖れ慎む」という意味だとされます。

 

血というものは生命を支えるものとされ、さらには生命の象徴ともされ、そういうものに対し怖れ慎むという態度がまずあったのではないかと思います。その、怖れ慎む、転じて遠ざける、ということから「忌」になったのではないのか。

 

 

また、神道では祭礼の前に、精進潔斎(※ 禊[みそぎ]を行い、男女の交わり、肉食、匂いのきついものを避ける、など)が求められます。

 

清浄なる心身で神に臨まなくてはいけないのであります。

 

 

現代のように、例えば川に入って禊をおこなうようなこともせず、手水舎で、手を洗い口をゆすいで、もう禊は済んだからお参りだ、なんてやっているのは怠慢・堕落の大バカ野郎だ、ということになるかもしれない。

 

 

 

そういうお前は、ちゃんとやっているのか・・・、なんて言われましても。

 

 

キリスト教会で、司祭様から聖水を頭に振ってもらって洗礼(※ これも禊でしょう)をやってもらってますから、清浄ではないかと。

 

 

(うそ言えー!お前、クリスチャンじゃないだろ)

 

 

最後に、霊山や修験道などの修行場、さらには相撲の土俵における「女人禁制」のしきたりであります。

 

戦後になってから、それまで幾つかあった、霊山や修験道の修行場の多くは女性にも解禁となりましたが、今でも一部はまだ残っております。(※ 日を決めてという所もあるようです)

 

 

もともとこういう山は、人知未踏の地であったり、険しく危険な場所であったが故、そもそも女性や子供は近づくことを許されず、そういう場所で男たちは黙々と修行に励んだとされます。

 

そこに、その修験者の持つ験力(法力)に期待を寄せて女性信徒も山に登ってくることもあったのだとか。しかし、男だけで厳しい修行に明け暮れているところに女性が加わるというのは、何かと問題がおきやすい?

 

 

 

もう、男所帯は蛆が沸く、ってよく言ったものよ

ごはん、作ったげる。お掃除もしたげる

 

 

 

 

そこで、「結界」を設け上部を「女人禁制」とし、そこに「女人堂」などという、女性のための祈祷所を設けたともされます。

 

つまるところ、女性が穢れた、つまり不浄だからということではないようなのです。

 

 

それが、変なふうに捻じ曲げられ、「女人禁制」などとは女性差別だ、なんてことが言われたようです。

 

 

ちなみに、山の神は女神(※ 山姥とされるものの、実は女神なのだとか)とされ、人間女性が山に入ると嫉妬して災いを起こす、なんてことも猟師などでは言われていたとされます。

 

で、オコゼなんて顔が醜い魚(干物)を持ってゆくと、山の神が「あたしより醜いじゃないの」なんて喜ぶのだとか。

 

 

まあ、かなり強引な解釈だとは思いますが。

 

 

して、沖縄にあっては、琉球神道なる独特の信仰があるのだそうですが、その祭司は「ユタ」と言われる女性で、その祭礼は、逆に「男子禁制」なのだとか。

 

これもまた、べつに、男性を差別しているということではないでしょう。

 

言うなれば、必要に応じて「区分」されているとでも言ったらいいのか。

 

 

さて、相撲となりますと、これは「土俵の上に女性を上がらせない」ということで大論争となったことがあります。

 

これについては脚本家で、横綱審議委員も務めた脚本家の内館牧子が『女はなぜ土俵にあがれないのか』(幻冬舎)という本を書いておりましす。

 

 

相撲大好きで、その歴史を知りたいと、東北大学大学院にまで入った、という方です。

 

彼女が言うには「土俵は聖域」にして、女人禁制ではあるが、これは男女差別を意味するものではない、としております。さらには、上がる必要もない、と。

 

思うに、彼女も「区分」ということを言いたいのではないのか。

 

 

そもそも、この相撲ですが、元は寺社が、建立や修繕の目的で勧進、つまり寄付を集めるために行った興行なのだとか。

女人禁制の寺社の境内で行われていたため観客も全員男だけであったとされます。

 

明治に入って、この禁制は解かれます。

 

 

考えてみるに、現代のボクシングはイギリスに始まったとされますが、言うなれば男同士が殴り合うのを、女性が見たがった、ということはなかったと思います。

 

相撲だって同じではないのか。ちなみに、相撲は「奉納相撲」といいますように「神事「ともされていたとされます。

現在の、神輿や関西のだんじりも、これ、基本的には男だけの神事でしょう。他にも信州は諏訪の御柱(おんばしら)祭なんてのも同じです。

 

 

 

 

時には死者も出るという、極めて危険な祭り。奇祭とも言われます

 

 

 

これを「女性を参加させないのは差別だ」なんていう方はまずないでしょう。

 

「区分」というか「区別」と「差別」は違うものだと思います。

 

 

女人禁制というものも、本来は、そこに差別なんていう考えはなかったように思います。