日本教 お正月です 初日の出、御来光を拝んで感謝の意を表すとともに今年一年の幸せを願いましょう | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

我々日本人は無宗教だとよく言われます。

 

 

形の上では日本は仏教国ということにもなっているらしいのですが、実際には仏教が我々日本人の精神性に深く根を下ろしているとは考えにくく、かといって神道こそが日本の独自宗教と言われてもピンときませんねえ。

 

 

日本人は、意識しているとか、していないのかに関係なく日本教とでもいうべき宗教の信者だ」と言っていたのは評論家の山本七平で、あっしもこの方に共感を覚えております。

 

 

仏教、神道、儒教、陰陽道(道教)その他、土俗的な民間信仰などが交じり合った、ある意味では捉えどころのない固有の宗教こそが日本教とでも名付けるべきものなのでしょう。

 

 

今回は、正月にちなんだしきたり、風習(習俗、文化)において、そのことを考えてみたいと思います。

 

して、まずは「初日の出」です。

 

 

 

 

 

 

その歴史はそれほど古いものではなく明治以降のものとされます。

 

 

その年に最初に昇ってくる太陽を拝み、その1年の幸せを祈ります。

 

アーネスト・ヘミングウェイの小説に『陽はまた昇る』なんて小説もありますし、アメリカのミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の中では「サンライズ・サンセット」なんて歌われていましたねえ。

 

 

 

直接の関係はありませんが、JRが誇る寝台特急サンライズ出雲・瀬戸号

 

 

 

 

考えてみれば、毎日、きちんと日(陽)が昇るということはありがたいことなのであります。

 

 

これが、あーた、お天道様が「今日は、お休み。そうそう毎日、昇れるかい」なんてされたら困ってしまいます。そうでなくたって日蝕の時なんか、かつては「太陽が雲隠れしてしまった!」なんて大騒ぎしたこともあったようです。日本なら、天岩戸伝説(神話)がそのことを物語っているのでしょう。

 

 

世界は自分を中心にして回っている(※ 太陽系の惑星はみなそうですが)なーんて高慢タカビー女、いっそ、くそアマ、いや、天照大御神が、いじけて(?)天岩戸に隠れて高天原をパニックに陥れてましたからねえ。

 

 

太陽光発電でオール電化なんて生活していたら、大変なことになります。

 

 

 

ゆえに、毎日、必ず、お天道様が昇ってくれるということに感謝しなくてはいけないのであります。

 

 

「太陽が毎日昇るのは天体法則に基づくもので、んなこたー当たり前のことだろうが」なんて言ってるような輩は罰当たりなのです。

 

クリスチャンなら、神様がそのようにしてくれたのだと、ちゃんと神様に感謝しているはずです。

 

クリスチャンではなくとも、こういう感謝の気持ちを忘れたらいけないと思いますねえ。そうでないと、お天道様がいじけて、やたらと日蝕を起こす、とか・・・。

 

 

 

さて、古来日本では、初日の出とともに「年神様(歳徳神)」が現れると信じておりました。

 

して、この年神様とはどんな神様なのか?

 

 

 

 

 

父は須佐之男命で母は神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)で、豊年を神格化した神とされます。

 

他にも「年徳神」、「恵方神」、「お正月様」などとも言います。

 

 

 

そもそも、お正月とは、この神様をお迎えして祀り、その年の豊作を祈願する予祝(よしゅく)につながるものとされます。

 

 

 

ゆえに、炬燵にあたって、酒飲んでおせち料理食って、

 

 

 

年の初めの 姫始め ♪

 

 

 

なーんて言ってるような奴は大バカ野郎なのであります。

 

 

 

えっ、「姫始め」って何ですか、って・・・。

 

それはねえ。その年の最初にねえ。

 

 

 

 

まあ、古代以降、男女の交わりを模した豊饒儀礼も世界各地にはありますからねえ。

 

豊饒祈願の儀礼というのならいいのかも。

 

 

 

なお、この年神様は祖先神とも同一視されておりまして、現在ではお盆ばかりがご先祖様を迎える季節行事になってしまっているように思いますが、本来は、この正月もまた同じようにお迎えするものであったのであります。

 

 

門前に飾る門松お飾りも、この年神様がやって来た時の依り代とされ、鏡餅はお供えなのであります。

 

まあ、「お神酒(みき)あがらぬ神はなし」といいますから、酒の方がいいのかもしれませんが。

 

 

 

ささ、まあ、一杯。おお。これはお強い

さあ、さあ、もう一杯

 

 

 

このように神様を供応してこそ、その年の豊穣が約束されるのであります。

 

神社ですと、巫女の舞、つまりは神楽(かぐら)なんかも、文字通り神様を楽しませるために行う芸能なのであります。

 

 

 

そうですか、もう、神楽は飽きましたか

 

 

それでは、少し古いですが、若けー娘がアブナイお薬なんか使って

踊り狂うよーなジュリアナ東京音頭なんぞを

 

 

 

もはや伝説のジュリアナ東京

 

 

 

えー、もちろん、お気に召した娘がおりましたらお持ち帰りも

 

 

 

なお、お年玉なるものは、今でこそ現金が多いようですが、本来は丸い鏡餅(※ 年神様が宿る)を家長が家族みなに分け与えることでした。これで、みなが年神様からその年の福、あるいは霊魂を授かるということになったのであります。

 

 

つまり、なにも子供にだけ与えるというものではなかったのであります。

 

 

 

しかながら、例えばの話、年神様が一人一人にこの、ありがたいお年玉を配っていて、最後にあっしもワクワクドキドキしながら手を出して待っていると・・・。

 

 

 

あー、ねずみ男。おまえの分はないよ

 

 

 

なーんて言われたらどーしましょう。

 

 

 

 

うぞ!?(お年玉がもらえなかった人・症候群)

 

 

 

 

なお、「御来光」という言葉は、仏教でいう「御来迎」からきているともされます。

 

 

ゆえに、そんな、あっしには日が昇る東方からではなく、日が沈む西方の方から、

 

 

 

 

ねずみ男。お迎えに来たぞ

いっそ、楽にしたるわ

 

 

 

 

阿弥陀来迎図

 

 

 

 

まあ、いずれはお迎えが来るんでしょうし、極楽に連れて行ってくれるというのなら・・・。

 

うれしいような、悲しいような。

 

 

 

そこで一句。

 

 

 

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし

 

 

( クソ坊主 一休宗純のものです)