日本教 日本人にとって仏教とは? ④ 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い 檀家制度によって仏教は堕落?   | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

  江戸時代以前の仏教は日本人がいかに生きるか、いかに死ぬかの心の支えを教えてきた

  民衆とともに、いや民衆の先頭に立って民衆とともに泣き、ともに喜ぶのを生きる道としてきた

 

  しかし、江戸時代、幕藩の意を体して、より従順な民衆を育てる武士の国家の公僕に変身してしまった

 

 

と、これは宗教学者である笠原一男・編の『日本宗教史』(山川出版)の中にあった言葉です。

 

 

 

 

朝廷(国家)独占の仏教を、民衆にまで広げようとしや空也上人

 

 

 

 

日本に伝わった仏教は、極めて高度な異国の先進文化として国家がこれを独占管理し、言うなれば政治支配においてもちいられていたとされます。それが飛鳥、奈良という時代を経て、平安の時代になって最澄空海がこれを一般民衆にまで広げるという基礎を作り、鎌倉時代になって道元、法然、親鸞、日蓮といった人々によってようやく民衆にも届くものともなりましたが、しかし宗教学者である山折哲雄センセによれば、彼らの説いた教えを理解できたのは彼らの周辺に集まったごく一部の人々ではなかったかとしております。

 

 

日本仏教史なんて本を読みますと、その思想の展開、流れこそはわかりますが、はてさて、それらが我々日本人にどれだけの影響を与えたのかが見えてきません。

 

 

とは言いましても、仏教は室町時代を経て、江戸時代に入ると徳川幕府の強いバックアップもあって、まさに「国教」ともいうべき宗教となり一般民衆の隅々にまで行き渡るものとなります。

 

 

しかし、それは葬祭(葬儀や法要)を通してのものであり、これを揶揄して「葬式仏教」が江戸時代に確立した、なんてことがいわれます。

 

 

 

仏教にあって、葬儀は本来、特別なものだった?

 

 

 

檀家制度や、年忌法要、戒名、さらには個々人がそれぞれを建てるようになったのも、実は江戸時代になってからだとされます。

 

それが、そのまま今日まで受け継がれてきているのでありますが、つまるところ、それほど歴史のあるものではないと言えるでしょう。

 

 

 

さて、比叡山にて、千日回峰行という極めて厳しい行をなんと二回も行ったという酒井雄哉という僧侶がおります。

 

 

 

 

 

様々な苦難を乗り越えてきた方だけに、この言葉には重みがあります

 

 

 

 

 

この方の言葉に、

 

 

 

自分達僧侶は、大勢の信徒の皆さんのおかげでこうやって生きていられる

だから、そんな信徒のために、拝んで拝んで拝み倒すのであります

 

 

 

というものがありましたが、冒頭にあげました「民衆とともに泣き、喜ぶ」という僧侶、というか宗教者の姿がここにあると感じたものです。

 

 

東北は出羽三山の湯殿山と言えば即身成仏のミイラで有名ですが、このような即身仏は飢饉などの時に行われたとされ、これを「代受苦」といいまして、いうなれば生贄、人身御供のようなものだと考えられます。

 

 

 

 

湯殿山 即身仏

 

 

 

本当の宗教者というのは、こういう方々を言うのではないかと思います。

 

 

あのイエスだって、当時のユダヤ社会の既成の倫理宗教規範を批判し、そして自らもその覚悟は持っていたようですが、結局は体制批判者として捕らえられ殺されてしまいました。

 

 

偉そうに、ただ口先だけの能書きなんかを垂れてるよーな新興宗教の教祖様も少なくないように思われますが、こんなのは宗教者とは言えないと思います。

 

 

社会というシステムの中にあって、宗教者というのは率先して人々を導き、救済してくれる役目を負った人だと思います。

そのために信徒は布施を行い、彼らの生活を保障する。

 

 

日本における仏教も、本来はそのような方向に向かってスタートしたはずなのですが、近世に入り、徳川幕府の政治体制の中に組み込まれていった結果として、堕落してしまったのではないかとされます。

 

 

 

今回は、その要因になったともいえる、江戸時代に徳川幕府をして構築された檀家制度(寺檀制度)について考えてみます。

 

 

端緒としては島原の乱に代表されるようなキリシタンに手を焼いた幕府が、キリシタンではないこと、あるいはキリシタンから改宗したしたことを証明するため証拠として判形(証明書)を取ったことだとされます。

 

 

これが宗門(宗旨)人別改めであり、同時に行われた檀家制度によって、日本国民は誰しもが仏教信徒としていずれかの宗派に属し、その寺院の管轄下におかれるということになります。

 

 

なお、檀家とは、「檀越」という言葉からきており、寺や僧侶の援助者、庇護者(パトロン)を意味するものだそうです。

 

 

当初は藤原氏などの有力氏族、豪族がこの檀家になり「氏寺」と呼ばれる、自分達のための寺院を建立したのであります。ちなみに、同じように彼らは神社もまた建立しております。

 

 

この藤原氏に例を取れば奈良の興福寺はもともとは藤原氏の氏寺で、春日大社はその氏神を祀っておりました。

 

つまるところ仏教は当初、異国の強力な神(蛮神ーばんしん)とされ、日本の神と同格的に捉えられていたようです。

 

 

 

早い話が、

 

 

日本の神だろうと、異国の神、仏だろうと

ご利益があれば何だっていいんだよ

 

 

 

というものであったのだと思います。して、このような宗教観は現代の我々日本人にも通じるものでしょう。

 

ご利益があるというのなら、その気になれば、あのイエスだって大明神なんかにして神社を作ってしまいかねない?

 

 

 

なんなら、あっしが、そこの神主をやってもいいですけど。

 

 

思うに、その方がよっぽど日本にキリスト教が定着したのではないかと思いますがねえ。

 

 

 

 

さて、そんな檀家なるものが江戸幕府によって民衆支配の手段の一つともなるのであります。

 

江戸時代に入ると仏教寺院が飛躍的に新たに作られますが(※ 15世紀半ば~17世紀半ばの200年間に集中)、そして現代における寺院の約80%以上が、この時代に建立されたものだとされます。

 

ついでに言えば、葬儀を重視したのが浄土宗、そして浄土真宗、さらには意外なことに曹洞宗でして、これらの宗派の寺院が数多く作られたとされます。言うまでもなく檀家制度定着の絡みもあったのでしょう。

 

一方に、天台宗、真言宗はもちろん葬祭も行いますが、それは主なものではなく、東京近辺の初詣でにぎわう成田山川崎大師のように、加持祈祷による現生利益を前面に出しておりました。

 

 

して、檀家を多く有する寺院を「回向(えこう)寺」、加持祈祷による現生利益追及の寺院を「祈祷寺」なんて言うようです。

 

 

 

このように宗派によって基本的な方向性が分かれてゆきます。

 

 

※ 奈良仏教系の古刹、つまり由緒ある寺は主に奈良や京都に集中しておりますが、こちらは、本来その寺領があるところが多く、また現在では観光寺院(?)となっているようにおもいます。

 

 

 

 

京都 清水寺

 

 

 

さて、檀家が所属する寺院を檀那寺(※ 菩提寺なんていうこともあります)ですが、その機能、役割としては、

 

 

1.徳川幕府の政治的末端機関・役所

 

 冠婚葬祭、法要(法事)の許可、管理、旅行手形の発行(本人証明)など

 

2.思想統制

 

 幕府にとって望ましい人間形成が求められる。要は、従順な民衆への教化

 

3.特高警察(※ 公安)

 

 隠れキリシタン、不受不施派(※ 他宗以外の信徒からは施しを受けない、しない、というカルト的宗派 日蓮宗、浄土真宗系)の摘発

 

 

 

といったものがあったとされます。

 

 

かつて、ローマ帝国キリスト教を国教化した時、キリスト教徒はその正当性、普遍的真理が認められたとしましたが、実際はその為政者が、民衆管理の手段として、キリスト教が有益であるからと考えたものの方が大きいように思われます。

 

日本における仏教も、徳川幕府が精神的な民衆支配のために有効だと判断したからでしょう。

 

 

 

なお、明治にあっては神道が仏教に変わりますが、ここにおける神道(国家神道)も、その宗教的な内容というよりは天皇制という国家社社会システムを支えるにあって有効だと判断されたからにすぎないように思います。

 

 

 

だいたい、宗教が政治と結びつくとロクなものにならないように思われます。

 

キリスト教も国家と結びついておかしな方向に進んだように思われますしねえ。

 

 

 

さて、数多く出来た寺院ですが、その維持経営、運営にあっては基本的に信徒の布施が頼りとなります。

 

確かに葬儀を独占管理することにはなりましたが、なんせ、人間は死ぬのは一度っきりですからねえ。まして、そうそう次から次へと亡くなるというわけでもない。

 

 

そこで考え出されたのが追善法要(年忌法要)なのだとか。

 

 

仏教本来は、インドでは50日(※49日にされます)までで、中国に伝わって三回忌まで増え、これが日本では最長で三十三回忌(※ 宗派によってはもっとあるところも)をもって「弔(とむらい)あげ」と言いまして、いわゆる「ホトケ」、「御先祖様(祖先神)」になるのだとされました。

 

 

亡くなった方の霊が次第に浄化され、最後は祖先神になるというのは、仏教伝来以前から日本にあった民間信仰だとされますが、仏教がそこに関与し意味づけを行うようになったとも言えます。

 

 

このように追善法要が増えれば、それに従ってお布施も増えるわけですねえ。

 

 

なお、「過去帳」と呼ばれる、言うなれば戸籍のような管理簿もつくられ、これにより亡くなった方の命日、法要の期日がわかります。これまた檀家制度が始まって作られたとされます。

 

 

他にも、盆や彼岸、釈迦や祖師の命日、さらには寺院の修繕、改修費、盆正月の付け届けといった布施も檀家に求められたとされます。

 

 

ことわざに、「坊主、丸儲け」というのがありますが、そもそも収入の全部が儲けとなることをいったものでしょう。

 

 

これが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのも、これこそは檀家制度に絡んだものらしく、こういった仏教寺院の強欲さ(※すべての寺院、僧侶がそうだったということでもないようですが)を非難したもののようです。

 

 

なんせ、布施を渋るようだと最悪は葬儀も行ってもらえず、よからぬ噂を流された(※ 隠れキリシタンだとか)こともあったようです。

 

また祠堂金といった名のついた金融、つまり金貸し、それも高利のものが行われたともされます。

 

他にも幕府や大名との癒着による汚職、廓通いなんてこともあったとか。酒も般若湯なんていい公然と飲んでいたともされます。

 

 

 

戒名に尊卑が付けられ、高額な布施をすれば長い戒名がもらえるなんて習俗も、この時に作られたようですし、個々人のを建てるようになった(※ された?)のもこの頃からだとか。

 

 

それ以前はといいますと、例えば「念仏構」なんていう、村なら村の相互互助組織のようなものがあって、村人が総出で冠婚葬祭を仕切ったとされます。僧侶を呼んでお経を唱えてもらうなんてこともあったようですが、それはあくまで補助的なものだったようです。

 

 

さてさて、このように江戸時代の仏教は檀家制度の上に胡坐をかき、本来の教義の研鑽や布教なんてことはほとんど重視せず、従って研究者によれば、この時代には画期的ともいうべき研究や思想は生まれなかったとしております。

 

現代も、この檀家制度を引きづっているわけですが、考えてみりゃ、我々自身がきちんとした死生観をもっていないと、それこ寺院や葬祭業者の言いなりになってしまうような気がします。

 

 

宗教学者の島田裕巳は、葬儀も、戒名も、いっそ墓も要らない、なんて言っておりますが、まあ、ずっと簡素化することはできるように思います。

 

なんせ、葬儀や追善法要にこれほど金をかけるのは世界の中でも日本人だけだ、なんて言ってますしねえ。

 

 

 

なーんてことを書いておりますと、日本仏教界から大反発を食らって仏敵なんて言われるとか、あいつは隠れクリスチャンだ、なんて言われるのはともかく、秘密諜報機関の実行処理部隊(?)の、例えば仁王様みたいのが、いきなりやって来て、

 

 

 

 

 

 

仏敵ねずみ男に罰を与えてくれん

 

 

 

 

なーんてねえ。

 

 

 

 

 

仁王様に踏みつぶされている邪鬼

 

 

 

 

 

ちょっと怖いです。