日本教 日本人とって仏教とはどういうものなのか ③ 遺骨への執着 そこには霊魂が宿る? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

意外なようですが釈迦本人は「自分が死んでも墓は作るな」と言っていたのだとか。

 

 

しかし、その遺骸を荼毘に付した後、弟子達はそれぞれその遺骨、つまり舎利を持って故郷に帰りそれぞれがその墓を作ったのだとされます。

 

 

確か、釈迦は「何事(何物)にも拘ってはいけない」と説いていたと思いましたが、そうするとその弟子達はイエスの弟子達と同じくボンクラだった、ということか。

 

 

なお、その釈迦の遺骨の一片は日本にもインドからもたらされたものを納めた仏舎利塔が静岡県は御殿場市にあります。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、キリスト教には「聖遺物」といいましてイエスの受難における様々な遺物が信仰の対象となってきました。

 

 

イエスの遺骸を包んだとされる聖骸布、最後の晩餐の時にイエスがそこからぶどう酒を飲んだとされる聖杯、(※ 磔刑にあったイエスの身体から流れ出る血を受け入れたともされます)、イエスを刺したとされる聖槍(せいそう)、イエスが磔刑の時に身につけていた聖衣などですねえ。

 

 

ルターの宗教改革の頃のドイツにあっては相当数の聖遺物があったようですが、中にはイエスの骨とされるものもあり、ドイツだけではなくヨーロッパじゅうにこれがあったそうでして、それを全て集めるとなんと1000人以上ものイエスを復元できるのだとか。 (永田 諒一『宗教改革の真実』講談社より)

 

 

 

つまるところ、中には相当に怪しげな聖遺物もあったようです。

 

 

して、こういった聖遺物は、いつしか超神秘的なパワーが宿ると考えられ、例えば映画『インディジョーンズ・最後の聖戦』では聖杯が登場し、これに入れた水を飲めば不老長寿になるなんてされておりましたねえ。

 

 

同じく、釈迦の遺骨、仏舎利にも同じように神秘的なパワーがある?

実際、日本の仏教寺院には、この仏舎利のご利益を説いているところがあります。

 

 

宗教学的に言いますと、こういう考え方を「呪物崇拝(フェティシズム ※ 本来の意味は性的なものではなく、この呪物崇拝を言います)」といいまして、「超自然的な霊威、呪力を持つとされ神聖視されている物」を崇拝することを言います。

 

 

一般的には、いわゆる未開社会における呪物が対象ですが、実のところキリスト教の聖遺物、十字架、そしてイコン(聖画)もそうでしょうし、仏教なら様々な仏像もまたそうでしょうねえ。仏舎利だってそうだと思います。

 

 

 

いずれも、あえて言えばただの「物(もの)」でしょう。

 

仏像だって木や金属などで作られた物で、これは偶像です。

 

 

 

なお、このような偶像を作ってこれを崇拝するなとは、キリスト教以前のユダヤ教の神であるヤハウェの言っていたことです。

 

ま、確かにこういった偶像は人間自身が作った物で、それを神なら神として崇めるというのは、ただの物を神聖視しているにすぎないようにも思われます。

 

 

ちなみに、当時のユダヤ民族以外はみな、何らかの偶像を作ってこれを神として崇拝しておりました。

ユダヤ民族は、それを作る技術も金もないから、その神はこれを否定したのだ、なんて説もあるようですが、さて。

 

 

 

さて、我々日本人は遺骨なるものをどのように解釈してきたかを紐解くに、最も古い埋葬の形は土葬が主流で、このように埋めていまえば遺骨なんてものはありえないはずです。

 

しかし、実際には土葬の他にも、ごく一部のようですが火葬をしたり(※ 縄文時代の遺跡にあったとか)、あるいは風葬、というか、これは、つまり野ざらしにしておいたというべきか。

 

五来 重という、仏教民俗学者の『先祖供養と墓』なる本には、かつて霊場とされる山などには「むくろ谷」なる場所(※ 「地獄谷」、「賽の河原」なる場所もあるようですが、ここも同じ?)があり、死んだ者がここに投棄されたとあります。

 

 

これなど、つまりは野ざらしであり、風葬であり、これを鳥が突けば鳥葬になるのかもしれないですねえ。

 

 

 

また、沖縄や、あるいは海岸地方ですと、遺骸を海辺の洞窟などに安置し、風や波によって次第に白骨化するまで置いておくという「洗骨(葬)」なるものがあるとされます。

 

そして、白骨化した骨を新たに埋葬するのだとか。

 

 

実は土葬においても、しばらくしてからこれを掘り返し、白骨となった物を、やはり改めて埋葬するなんて風習もあったそうです。

 

 

して、以前、ヨーロッパのとある村の埋葬を紹介する番組を見たことがあるのですが、やはりこちらでもいったん土葬し、一定期間を経て掘り返し、白骨化したものの中から頭蓋骨(しゃれこうべ・ドクロ)だけを、その村にある地下納骨堂(カタコンベ)に安置しておりました。

 

 

 

これはフランスはパリの地下納骨堂(カタコンベ)

 

 

 

思うに、この地域もキリスト教が主流だと思いますし、そもそもキリスト教では死んだ方の霊魂は天に昇る(天国に行く)考えられているはずですが、このように遺骨に拘るというのは、恐らくはキリスト教以前の古い習俗ではないかと思います。

 

 

さてさて、現在の主流の火葬なるものは、その歴史は意外に新しく明治以降に定着したのだとされます。

 

江戸時代までは、それこそ木で作られた桶(棺桶)に入れて土葬していたのでしょう。しかし、都市への人口集中が続くと、土葬するにも場所が足りなくなり、結果として火葬するようになっていったともされます。

 

 

つまり、一般的には我々が目にするような遺骨は明治以降に登場したのではないかと思われます。

 

 

して、この遺骨に対する我々日本人の感覚は特別のものがあるように思われます。

 

 

戦争中、遠い異国の地で亡くなった戦友や親族の遺骨を求めて現地に行った、なんて話を以前にはよく耳にしたことがありますし、俳優の石原裕次郎が亡くなった時、兄の慎太郎は「弟が好きだった太平洋に散骨したい」なんて言っておりましたが、当時の法律解釈ではそれは不可能だとして実現できなかったとされます。

 

 

しかし、最近では容認されることになったと聞いたことがあります。

 

 

 

ついでに言えば、遺骨をロケットに乗せ宇宙空間に送り出すという、その名も「宇宙葬」なるものもあるのだとか。料金はとりたてて高額というわけでもないようです。(※ なんせ、遺骨の一部で、それも他にも大勢の方の遺骨と一緒だそうですから)

 

 

 

 

 

 

文字通り宇宙の塵に帰すということになるのでしょう。

 

 

なかなか魅力的な気もしますが、例えばの話、その打ち上げたロケットがそのままブラックホールに呑み込まれる、なんてことはないのか?

 

 

 

まあ、それでもいいような気もしますが・・・。

 

 

 

しかしながら、こういった埋葬方法や遺骨に対する考え方ですが、確かに仏教の葬儀に絡んでは来ますが、そして舎利(仏舎利)ということから、あたかも仏教がもたらした考え方のように思いますが、宗教学者の山折哲雄センセによれば、むしろ、日本独特のものではないかとしております。

 

それというのも、例えば『万葉集』の挽歌には、人々の関心はあくまで死者の魂の行く先であって、遺骸や遺骨には何の関心も寄せていないのだと山折センセは言います。

 

 

実のところ、かつてに日本には両墓制というものが一般的だったとされます。

 

 

これは、遺骸を埋める墓(埋め墓)と、詣でる墓(詣り墓)は別なのだそうです。つまり、遺骸は集落から遠く離れた、言うなれば共同墓地のような所に埋葬、もしくは打ち捨てて、場合によっては二度とそこに行くことはなく、集落の近くに別に墓を作り、そこに供養のために詣でるとされます。

 

 

しかし、その詣でるとされる墓も、いたって簡素なもので、そもそも亡くなった方の霊魂は近くの山に昇るものと考えられていたため、いっそ個々人の墓を建てるというようなこともなかったとされます。

 

先回、「山中他界観」なる考え方があると書きましたが、死んだ方の魂は次第に浄化され(※ 荒魂(あらたま)から和魂(にぎたま)になってゆくとされます)、最後は祖先神、御先祖様と一体化するともされます。

 

民俗学の祖、柳田国男などが言う、日本固有の死生観ですねえ。

 

 

 

つまり、我々が遺骨というものに拘るというのは火葬が一般化した明治以降に生まれたものではないかということになるでしょう。

 

最近よく、火葬したものの身寄りがない方の遺骨が、そのまま引き取りてもないまま、仕方なく公共施設などに保管されているという話を聞きますが、こういうことも、つまりは新しい現象でしょう。

 

 

宗教学者の島田裕巳センセは『葬式は、要らない』なんて本を書いてますが、これに沿って言えば、いっそ墓も要らない?

 

 

いいじゃないですか、死んだらその魂は山に昇ってゆくというのなら、それこそ墓なんか作ったって意味はない、と。

 

遺骨なんて、それこそ海でも山にでも撒いてくれ、と。

 

(※ 埋葬法の関係で、ただ撒くというのは引っかかるようですが)

 

 

ちなみにクリスチャンなら、その魂は天国に行くんでしょうし、浄土宗や浄土真宗の信徒であれば、その魂は極楽に行くはずです。

 

 

だったら、墓には何がいるのか、あるのか?

 

 

千の風になって』という歌にもあるじゃないですか。墓の下になんて埋まっていないのだと。

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

ちなみに、イエスは死んで埋葬(※ ただ洞窟に安置されただけ?)されるも、後で行くとその墓が空だったということから、なんと復活したのだという神話(!?)が作られてますがねえ。

 

 

これが火葬にされていたらどーなったんでしょう。

 

 

ドラキュラは燃やされて灰になったものの、その灰に血がしたたり落ちたら復活した、ということになってましたがイエスの場合は、大酒飲みだったというから、酒でもたらせば復活するのか?

 

 

 

 

 

 

して、よく故人は酒が好きだったから、などと言って墓参りに来た方が墓石の上から酒をかけたりすることもあるようですが、これやったら、死んだ方が墓石を持ち上げて出てくる?

 

 

これ、怖いです。

 

 

復活なんかしないで、そのまま死んでいてくれ、と。

 

でも、その魂は山や天国、もしくは極楽に行っているとするなら、そこから出てきたのは魂のない抜け殻、いっそゾンビ

 

 

もっと怖いです。