あっしの実家の菩提寺は浄土宗ですから、そして一応、そこの檀家となっているようですから、もしかしたら、あっしも浄土宗の信徒にされているのかもしれないです。
して、南無阿弥陀仏と唱えていれば、いずれ死の間際には西方浄土から阿弥陀如来様のご一行が迎えに来てくれるのだとか。
ありがたいことです。
さあ、皆さんも一緒に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えましょう。
ついでに言えば毎月25日は「世界平和祈願の日」でして、この日はみなさん、世界の平和を願ってお念仏をとなえましょう。
ちなみに、極楽に行って何をするかと言えば、ハスの上なんかに座ってお釈迦様のありがたい説法を聞くらしいです。
なんとも退屈そうな気がします。
酒は旨いし、(天使の)ねーちゃんはキレイだ、とかいう天国の方がいいような。
いっそキリスト教に宗旨替え(回心?)しようかな。
おりしも、今日はクリスマス・イブだし・・・。
キリスト教のことはともかく・・・
ねずみ男さん、あなた、あたしのことボロクソ言ってなかった?
あ、いや、あの・・・、んなこたーありません
聖母マリア様あってのキリスト教だと思っております
なーんて個人的な話はさておき、先回に引き続き、我々日本人にとって仏教はどのようなものとしてあるのか、これを考えてゆきたいと思います。今回は宗教学者である山折哲雄センセの『仏教とは何か』(中央公論社)をテキストにしております。
さて、仏教が日本に伝わった初期の段階にあっては、それは天皇や貴族など、つまり政治的支配層の独占するもので、一般民衆レベルにまで浸透してゆくようになったのは鎌倉時代以降だとされます。
奈良仏教は完全なる国家仏教で、僧はみな官吏、つまり今でいえば公務員であったようです。南都六宗なんていう宗派もありますが、そういった宗派が独自にあったというよりは、それぞれの分野ごとの学問領域にすぎないともされます。
平安時代になり最澄や空海が登場しますが、これまた国家仏教の要素が色濃く、鎌倉時代になってやっと一般民衆レベルにまでおりてきまして、これが江戸時代に入り檀家制度を通じて定着したともされます。
しかしながら、仏教という思想、あるいは教義レベルにおいて、これがどれだけ一般民衆に普及したのかは怪しいと山折センセは言います。
むしろ、仏教が伝わる以前から日本にあった独自の民間信仰と関わることによって、その民間信仰を補強するものこそが日本の仏教ではないのかとしております。
何度か書いておりますが日本と言う国は山国なのであります。このような自然条件抜きには日本の民間信仰は考えられないのだとか。
ちなみに、ユダヤ民族は平原と言うか荒野の民だとされ、そこに生まれたユダヤ教という宗教は、周囲のさまざまな異民族との拮抗の中から生まれてきたものでして、これまた独自な宗教的要素のあるものでしょう。
それを土台としたキリスト教もまた、その要素を受け継いでおりまして、日本にこのキリスト教がなぜに浸透しないのかは、このような自然を土台とした精神風土の違いによるものかもしれないです。
山折センセはまず『万葉集』における死者を悼む挽歌の多くには、その魂が山に昇ってゆくものがあるとしております。
死者の魂がどこに行くのかという問題は、宗教によって異なりますが、その多くは地下世界なるものが想定されております。埋葬方法としては土葬が最も一般的なものだとするなら、これはその繋がりのゆえなのでしょう。
日本神話でいう黄泉の国なるものも地下世界のイメージです。
しかし、このような黄泉の国なる死後世界が一般民衆にも広まっていたとは考えにくいです。
思うに、日本の古い民間信仰では、万葉集に歌われているように死者の魂は山に昇ってゆくものと考えられていたのではないかと思います。
ヒマラヤ地域における鳥葬と言う風習は、遺骸を鳥に食べさせるというものですが、空高く飛んで行く鳥によって、その魂も天に昇るものとされたのでしょう。
この地域では、そのヒマラヤの山々を神々が住む世界としているとされますが、日本人もまた山を霊峰と呼ぶように、山は神々のいる世界だと考えていたようです。
ちなみに、神道の考え方によれば神は形のない抽象的な存在で、どこにでもある、つまり遍在的な存在だとされますが、その神が降臨する場所が山なのか、それとも山そのものが神なのかが曖昧な気がします。
いずれにせよ、山は神聖な領域とされ、崇拝の対象ともなり、そこで祭礼が行われていたようですし、そこにある巨木や巨岩(巨石 ー 磐座[いわくら])にしめ縄などが張られ、これを神が降臨する場所として聖域化していたともされます。後には祠(ほこら)や社(やしろ ー 神社)も作られました。
また、日本では早くから、こういった山で修行する人々も多く、これは後に修験者になります。ここに伝来した仏教が絡んでいったようです。ゆえに仏像などを安置したお堂なども作られるようになってゆきます。
奈良仏教は、都である奈良を中心としてありましたが、最澄や空海はそれぞれ比叡山や高野山をその拠点としておりまして、後の仏教寺院が「山号」を名乗っていますように、多くの寺院はこういった山を中心に作られたのではないかと思います。
神道では「神体山」としますが、仏教では山を浄土として捉える考えもあります。これを山中浄土観と言います。
本来の仏教では、その浄土思想にあっては、それを西方十万億土の彼方にあると説いておりますが、そしてそれは、いっそ異次元世界のことのようにも思われますが、日本ではむしろ、既にあった死者の魂は山に昇るということから、山こそがこの浄土に置き換えられたのだと山折センセは言います。
まあ、確かに浄土は、そんな十万億土の彼方にあるよりは、それよりずっと身近なところにあったほうがありがたいですよねえ。
その気になれば気軽に逢いにもゆけますし。
浄土としての山は、思い浮かぶのは、まず青森はイタコで有名になった恐山や、修験で名高い出羽三山などが思い浮かびますが、そして実際にそれらの地には浄土と名付けられた場所(※ さらには賽の河原や地獄と名付けられた場所もあります)もありますが、特筆するとすれ空海の開山した高野山でしょう。
知る人ぞ知るですが、ここには戦国時代の武将に始まり、現代では著名人などの墓が数多くあります。この地もまた浄土とみなされてきたようです。
なお、そもそもこのような浄土信仰は最澄が興した天台宗は比叡山にて、源信や空也が浄土思想を説いたことからはじまり、そこから法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗も生まれてくるわけですが、そういう特化したもの以外にも、つまるところ空海の真言宗にも流れているわけですねえ。
さて、高野山には、その下級僧である「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる方々が、村や町を廻り勧進の旅に出て、亡くなった方の遺骨の一部を高野山に納めれば浄土往生疑いなしと説いて回ったとされます。
神道では伊勢神宮の下級神官である御師(おんし)がお札を持って全国を回り、そのご利益を説いたがゆえに伊勢信仰が始まったとされますが、仏教も神道もこのようにして一般民衆の中に定着していったのでしょうねえ。
して、このような納骨習慣が近世になっては徳川幕府が行った檀家制度に継承され、寺と墓のネットワークに繋がったのだとされます。
ちなみに、今でも地方に行きますと所々に、その地域の人々の墓地を見ることがりますが、それは特に寺の境内ということもなく例えば山のふもとや丘の上、平地や盆地なら田畑の中にあったりもしますが、そもそも、これが本来の墓地の形で、寺の境内に墓を作るというのは近世以降ののことでしょう。
なお、これが都市部ともなりますと、もはや寺の境内には納まり切れず、また檀家制度と言ったネットワークから外れた方々が仕方なく(?)公営墓地や民営の霊園に墓を作るということになっているのでしょう。
しかしながら、こんなふーに墓を作り続けて行けば日本の土地は墓だらけになってしまうはずです。
あえて言えば、現在のような墓の形態は、それこそ近世以降に広まったものだとされます。
我々はとかく、こういった古くからの風習としての埋葬習俗、つまり墓を当たり前のように考えておりますが、実はこのようにその始まりがあったのであり、それもそんなに古い歴史を持ったものではないのであります。
こういう風習が理想的なもの、ということもないはずでして、最近では墓なんか作らずに、例えば樹木葬といったもので済ませる方も増えているとされます。
だいたい、クソ高い金を出して墓地を買ったり、墓を建てたりすることに意味があるのか?
まして今ですと、下手をすると三代か四代ぐらいで、言うところの「墓終い」なんてことだってあるでしょう。
よっぽど有名な方とか、偉大な功績を残したという方ならともかく、自身の三代、四代前のご先祖様なんて記憶から薄れてますからねえ。
いっそ、墓なんか作らず、亡くなった方の魂はお山にいるとした方が手間ひまも、金もかからずにいいと思いますけどねえ。
あえて言えば個人でやるような追善供養も不要だと思います。
どうしてもというのなら彼岸やお盆に、その死者がいるとされる山に行くなり、山に向かって拝むなりで十分なのではないかと。
それを下手に墓なんか、それも金をかけて立派なものを作ったってねえ。
ねずみ男のジジイ、遺産も残さねーで、自分の墓にだけメチャクチャ金をかけやがって
線香なんかあげるか、いっそ、こんな墓、いっそぶち壊したれ
なーんていう子孫だって出てくるかもしれませんからねえ。