気紛れ読書録 リチャード・ドーキンズ『神は妄想である』② 神がいるという仮説をぶちこわす? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

『旧約聖書』(=ユダヤ教唯一の聖書)の神にはいろんな呼び方があったようです。「アドナイ」、「エル」、「エロヒム」、そして一番ポピュラーなものが「ヤハウェ」ですが、キリスト教ではただ「」とか「」と言うようです。まあ、神自身が、そのような名前だと名乗ったわけではなく、人間の方で勝手にそう呼んでいるということなのでしょうが。

 

さて、ドーキンズ先生は、無神論者(※ その多くが科学者のようですが)達の辛辣とも言うべき幾つもの、いっそクリスチャンからすれば神をも恐れぬ冒涜的発言を幾つか引用しております。

 

ノーベル物理学賞を受賞したアメリカのスティーヴン・ワインバーグの言葉として、

 

 

「神はエネルギーだ」と言いたければ、

一塊の石炭の中にも神を見つけられる

 

 

 

ちなみに、日本では雷に神を感じて、怖れ敬い、これを雷神としておりますからねえ。

して、これ、何度も書いておりますが、言うところの「パワー・スポット」なるものですが、そこで得られる超神秘的エネルギーを求めて名のある神社に参拝ではなく、たむろする(!?)、神社とすれば、賽銭もしない、お守りも買わない、それこそ冷やかし客(?)は来てほしくないなんていっているようですが、そんな輩には、「そんなにパワーが欲しけりゃくれてやる」と雷でも落としてやればいいんですよ。

 

 

しかしながら、雷に限らず、例えば那智の滝をご神体にした熊野那智大社などをみましても、我々日本人は、そういった自然エネルギーの発露に、超神秘的なパワーを感じていたようでして、まさにそこに神を感じていたのかもしれません。

 

 

 

 

この辺りは、人格神として捉えるか、自然神として捉えるかの違いでしょう。

 

して、後者の方は実際に目に見える、感じられる、つまり実在的なものであるのに対し、前者はあくまで抽象的なイメージでしかありません。

そして、その存在を証明する(※ 神学ではそういうこともあったようですが)ことは、まずもって不可能なことでして、となれば、後は、信じるか否かの問題となります。

 

 

世界、そして宇宙の様々な自然現象、法則が徐々に解明されている科学主義のスタンスに立てば、そもそも、そのような、いっそ、わけのわからん(!?)人格神なんてものは、いっそ妄想だと割り切ってしまえと、ドーキンズ先生は言いたいようです。

 

日本の記紀神話における神々も、まるで人間のような人格神であるかのように描かれておりますが、本来はやはり自然神であったものと思われ、そこにあのような具象的な物語性を取って付けたのではないかと思います。なんせ、天皇をその末裔にしたかったわけですから。

 

 

今でこそ、そういった記紀神話の神々を祭神としておりますが、元々は自然物、例えば山や滝、巨木、巨石をして感じられる、シンボリックな自然こそを神として祀っていたのではないかと思います。

 

 

して、ドーキンズ先生、このような神道における神概念を知ったらどう思われるんでしょうねえ。

 

もっとも、先生は、宗教人類学者タイラーが示したような、宗教進化説に与しているようにもみえます。この説は、宗教はいわゆる未開民族の原始宗教(アニミズム)から、多神教、そして一神教に発展してゆくというものでして、そーなると、多神教である神道の神も、いずれは唯一神に統合されるということになります。

 

しかし、神道の神々が統合されるというのはちょっと考えにくいです。

 

 

スペンサーの社会進化論ではないですが、この時代、チャールズ・ダーウィンの呈示した進化論に影響され、人間文化、社会も段階を追って進化してゆくという考え方が広まったようですが、タイラーの主張もこれに沿ったものでしょう。

 

 

ただし、社会進化論が次第に下火になっていったように、宗教進化論もまた、ちょっと受け入れがたいものであるように思います。

 

 

多神教と言っても、例えば日本の神道の神々にしても、ある意味では自然世界の法則、いっそ自然摂理の、それぞれ一面をシンボリックに表しているに過ぎない、と言えるかもしれません。

 

 

その自然摂理を。唯一のものとし、人格的なものとしたのがアブラハムの宗教であり、その多様な面にそれぞれ別個の神々を想定したのが、日本の神道の神々と言えなくもありません。まあ、これは考え方、解釈の問題です。

 

 

して、ドーキンズ先生が否定しようとしているのは、その人格性ではないかと思います。

 

言うまでもなく、学者であれば自然法則、自然摂理を否定することなどしないでしょうから。それを神などと呼ぶのが、そして、そういったものから独立して、それどころかそういうものを創り出し、その上でなおかつ、人間の上に君臨するなどということに納得できないのでしょう。

 

 

まあ、実際には、その神を神輿に乗せ(?)、それをバックに、勝手に偉そうなことを説く、キリスト教ならキリスト教という、「黙って従え」というような権威主義的な宗教に嫌悪感を持っているとでも言うべきか。

 

 

キリスト教に限らず、多くの、それも教祖様を奉る宗教ですと、この教祖様、もしくはそのブレーンの説くこと、示すことは絶対的なもののようですからねえ。

 

エホバの証人の教義にしても、どこかおかしいと思っても、それに疑問を持ったり、批判したりなってことは一切許されていないわけで、そうなりますと、もう、教祖様が「右向け右」と言ったら、自分自身は向きたくなくとも、右を向くしかない。黒いカラスも、教祖様が白いと言えば、白のカラスとなる?

 

宗教にはこういった面がありますから、確かに怖いものはあります。

 

 

キリスト教においても、そもそもはイエスという方が説いた、言うなれば斬新な思想を、その信者たちがこねくり回し、勝手に新たなる教義(聖母マリアの処女懐胎だの、死んだイエスが復活しただの、さらには三位一体論とか)を作り出し、「いいから、黙って従え」なんてやってますからねえ。

 

 

こういう点では、あっしもドーキンズ先生に共感する者であります。ドーキンズ先生は「王様は裸だ!」と叫んだ子供のようにも見えてきます。

 

 

 

なーんてことを書きますと、やっぱり、あっしも悪魔扱いにされ、最悪は火焙りにされるんでしょうかねえ。死んでからの火葬はともかく、火焙りはちょっとねえ。