気紛れ読書録 リチャード・ドーキンズ『神は妄想である』① いっそ神をも恐れぬ悪魔の書? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

『利己的な遺伝子』を書いて、喧々諤々の、良くも悪くも様々な論争を起こしたリチャード・ドーキンズの書いた本です。

 

 

どっちかつーと、いるのかいないのかよくわからないような神々、それも八百万の神々の存在を何となく、それこそ「まあ、そこはいいじゃないですか。難しいことは言わず、ささ、まあ、一杯いきましょう。おお、これはお強い。ささ、もう一杯」なんてやっている我々日本人からしますと、あまりピンときませんが、西洋キリスト教社会におきましては無神論という立場の方は少なくないようです。

 

 

無神論とは、言い換えれば「神の存在を認めない」という主張でして、これはなかなか大変なことでしょう。

 

そもそも、人類の歴史において宗教、そして神なるものは、その存在がもう当たり前のようなものでして、これを否定したのは「宗教は阿片」と切って捨てたマルクス思想に奉じた社会主義国家だけでしょう。

 

それ以外の国、文化におきましては、まずもって、それ相応の宗教があり、神もまたいる、あるいはいるものとして、想定されております。

 

 

ただ、ドーキンズ先生の主張に沿うなら、彼の言う「神」とはキリスト教、もっといえば、ユダヤ教、そしてイスラム教で言う神であります。これらの宗教は、その共通の祖であるアブラハムという方を創始としており、称してこの三つの宗教を「アブラハムの宗教」といい、ゆえに、その神も、あえて言えば同じ神と言えなくもありませんが、これを否定しているのであります。

 

 

西洋社会におきまして、神を否定するという立場は、これはもう悪魔主義ということになります。

 

 

しかし、実際には、当初、幾つもの宗教がありまして、そこには様々な神々がおり、そのような神々のいずれをも否定することなく、場合によっては異国の神ですか取り込んできた日本人からしますと、その偏執的とも言うべき一つの神だけに執着するというのは、ある意味では異様にも見えます。

 

※ 基本的に何でもござれの日本人ですが、唯一、拒絶反応を起こしたのが、このキリスト教の神であります。なんせ、他の神を一切認めませんから、日本古来の神々もみな否定されますからねえ。

 

 

さて、キリスト教は、まずはユダヤ教から独立し、イスラム教とも袂を分かっておりますが、それらの神とは一定の距離を置き、いっそ無視し(?)、それ以外の様々な宗教は邪教として片っ端から否定、排除してきました。あるいは、ドルイド教のように、それを取り込んでしまったものもあります(※ ドルイド教の冬至際が、クリスマスとなります)

 

 

して、その否定、排除の仕方は、「愛を説く宗教」なんてものとは裏腹に、相当陰湿、残忍なものでして、古代ローマ帝国の初期キリスト教徒に対する弾圧もかすんでしまいます。

 

 

何度か行われた十字軍もさることながら、異教はことごとく邪教とされ、もしキリスト教を信じないということになれば、ことごとく悪魔扱いにされ、粛清されてきたという歴史があります。

 

前にも書きましたが、写真家の藤原信也がその著『乳の海』で紹介している、スペインで用いられたという異教徒弾圧の装置をその例としてあげてみましょう。

 

あの有名な「鉄の処女」という、中世の拷問、というよりは殺戮用の装置を彷彿させるものであります。

 

 

 

 

異教徒は、まず、この、教会の礼拝堂の地下に備えてあったとされる、それもなんと聖母マリア像の、いっそ棺とも言うべきものの中に閉じ込められます。その中には鋼鉄製の鋭い針がありますが、それは風が吹くことにより、屋上にある風車が回り、この力を利用してオルガンが讃美歌を自動演奏するのと同時にほんの少しづつせりだすのだとか。

 

つまり、風が吹くと、讃美歌が流れ、聖母マリアが中に閉じ込められた異教徒を抱きしめるがごとく、ごく緩慢な動きながら、しかし確実にその針が突き刺ささってゆくのだとか。

 

 

して、この風は気紛れですから、いっぺんに吹くこともないのですが、それこそ、全く吹かないこともあったようですが、吹けば間違いなく讃美歌が奏でられ、死の時が迫る。

 

この装置の正式名称は「歓喜のマリア」だそうですが、誰もがこれを「死の抱擁」と呼んだとか。

 

 

この、いっそ恐怖の(?)マリア様に抱かれ、最後まで正常な神経を保てた人は誰もいなかったそうで、まずもって狂気の叫び声を上げるも、聞けば誰しもが涙を流すとも言われた荘厳な讃美歌の音にかき消されてしまう!?

 

 

怖いですよねえ。

 

幽霊やお化けよりも、人間が頭の中で考えることの方がもっと怖いです。

 

 

そして、異教徒に限らず、その解釈が少し異なっただけで、「異端」とされた、同じキリスト教徒は、もはや信者であることをはく奪され、悪魔扱いにされ、異端審問、そして火焙りという、異常なまでの執念は、もはやサイコパス、パラノイア、つまりは狂人にも通じるものがあります。

 

 

 

 ワルドー派の弾圧

 

 

まあ、こういったキリスト教の裏の顔、中世暗黒史を知るに、ドーキンズ先生の主張にも与したくもなります。

 

 

なりますが・・・、やはり、八百万の神々と仲良くやっております、我々日本人からしますと、確かに、そういった神々は想定外なのでしょうが、しかし、視野には入っているのでしょうから、やっぱり少なからぬ拒絶反応が生じます。

 

 

いっそ、『アンチ・クリスト(キリスト教は邪教)』を書いたニーチェのようなスタンスならまだ、少しは共感できるんですがねえ。

むしろ、ドーキンズ先生の方が偏執的なような気もします。