受け皿を手入れする | 伊達ヒューゴブログ

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わかりにくいかもしれないけれね、研修先で踏切音に癒されました。なんともかわいい音でした。

癒しはいがいと身近にある。日常になると気づきにくいけどね。

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先日FBに書き込んだ"自分に迷惑をかけない"という話に質問をいただきました。ありがとうございます。

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「自分に迷惑をかけているなー」って心の中でつぶやくと、"迷惑をかける自分"と"迷惑をかけられる自分"の2つの自分が立ち上がって、めいわくをかけられる自分こそが"幸せになる自分ですよ"って、いったいどういうことなんですか?

っていうご質問でした。わかりにくくてごめんなさいね。

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迷惑をかけられる自分こそが幸せになる自分ってね、たとえば、踏切の音を聴こうとするじゃない。

そうするとさ、①踏切音を聴こうとする自分、②踏切音を聴かされる自分、って分けることができるでしょ。

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その時に、踏切の音を聴いて"癒されるー"って感じているのは、ここでは、

①踏切の音を聴いている自分ではなくて、②踏切の音を聴かされている自分が、しみじみと"あー、なんだか癒されるよねー"って感じているんじゃないかと思うのね。

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そういう身体的な実感ってさ、能動的な時よりもね、受動的、あるいは受け身の時に感じるよね。

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あの時よかったよねー、あれは素敵だったよねー、今って最高だよねーでもいいんだけどね、癒し、驚き、喜び、嬉しさ、幸せ、なんでもいいけど、ものごとを感知するにはズレ、タイムラグがあるじゃない。

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それで、そのズレ、タイムラグを感知したり感受するのは、受け身の自分だよね。その受け身のお皿、受け皿にさ、いろんな感知したものが貯まるじゃない。

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つまらないを感知して、受け皿につまらないが貯まれば"人生はつまらない"になるし、私はダメだを感知して、それが受け皿に貯まれば"私はダメな人"になるし、幸せを感知して、受け皿に貯まればね、どんなことがあったって"あぁ、私は幸せだ"ってなるじゃない。

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どんなに楽しいことをやってもね、どんなに自分にとっていいことをしてもね、よりよい自分になろうとしても、あるいはすでになっていてもね、なんだか今いちピンと来ていないってことはないかしらね。

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だとするなら、ものごとに能動的になる自分を手入れするのではなくて、それを受け取る受動的な自分を手入れする、大切に扱う方がいいんじゃないかってことね。

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だって自分なんてものはさ、もしもあるとするならね、いろいろなものごとに影響されて、影響を受けて構成されているんだから、やっぱり"受け皿"を大切に扱うことが大切だよね。

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