◆遠江国・掛川城(雲霧城) 天守◆ | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2023年8月7日訪問※


掛川城のシンボルである【天守】を見て行きましょう✨


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掛川城の天守は、山内一豊が1590年(天正18年)に掛川城主となった際に建てられたと考えられ、1604年(慶長9年)の大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧暦11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。

その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。

1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。 

1621年に再建された姿は、『遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図』に描かれている。


それによれば、2重目以上が板壁で2重目には唐破風出窓に華頭窓をもつ層塔型の天守が描かれている。

3重目の壁は黒く縦横に線が描かれているため、戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であった。


3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に復元されている。

また、この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせた高知城の天守を参考にしてそれに近い内部構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。


復元する上で参考とした、現存の高知城天守は江戸時代末期の再建であり創建当初のものではないと指摘されるが、創建当初の天守を忠実に復元したので、一豊創建時の姿である。

一方で、掛川城の天守が地震で倒壊する数年前の1851年(嘉永4年)に作成された、天守台周囲の崩落した石垣と芝土手の被害状況を示した絵図面が残っており、同時に天守の形も示されているので、嘉永地震以前の天守を知る重要な手がかりとなっている(掛川市二の丸美術館蔵)。 

現在の天守閣は、織豊期以降の近世の天守丸として復元整備された。

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