▼上杉鷹山/山形県・松岬神社▼ | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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出羽米沢藩九代藩主・上杉鷹山の銅像ですキラキラ



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上杉鷹山

寛延4年7月20日1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。

宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。

宝暦13年(1763ね)より尾張国出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に元服、勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。

また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府10代将軍・徳川家治の偏諱を受け治憲と改名する。



明和4年(1767年)に家督を継ぐ。

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。

ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた

天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。

また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

安永2年6月27日1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。



隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。

享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。

文政5年3月11日1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。



法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家墓所

初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松崎神社に遷され、現在に至る。



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上杉神社周辺には、鷹山の銅像がいくつか建てられていますが、今回ご紹介するのは、松ヶ崎公園に建てられている銅像ですニコニコ音譜


座像ですが、結構大きな銅像ですニコニコ音譜







謙信と並び、今でも米沢の人々から尊敬されている事がひしひしと伝わって来ますねニコニコ音譜