競技に臨む姿勢と傾向 ~後半~ | 酒井根走遊会のページ

競技に臨む姿勢と傾向 ~前半~

からの続き…

 

 

本当の自分の傾向 競技に取り組む理由”

『目標は全国制覇、日本一です!』というと非常にかっこよく聞こえがいいです。そして一つ目標を定めてしまえば、あとは自分に厳しく、もっとストイックに、、、と競技に打ち込めます。

しかしこの他人が評価する“目標”というものは、

実は自分の“走りたい(競技に取り組みたい)理由”とは異なっていることが多々あります。②の傾向の選手が、自分の枠を超えて取り組んでしまうのは、上記のような“社会的に認めらえる正当な競技をする理由“を後から付けてしまっているためです。

“社会的に認めらえる競技に取り組む正当な理由”は、自分自身が取り組む競技でメジャーな大会があればあるほど、本当の自分に盲目的になりがちです。

自分の取り組むスポーツでメジャーな大会があれば、そこを目標にすること、そこに向かおうとすることで社会的評価を得られ、それは安心感に繋がります。

しかし、その環境の中で、表向きな目標とプレッシャー、無意識下にある”本当の自分の競技に取り組みたい理由”の間で苦しんでいる選手はたくさんいると思います。

それは、最終的には、結果を出すことに苦しさを覚え競技を離れてしまうことにも繋がっていきます。

 

対照的に、マイナースポーツを長年コツコツ続けてきた選手はすでに自分がそのスポーツが好きではまっていることを誰よりも深く知っています。そして他人の目・評価には左右されずに自分の意思で選択し競技に取り組みます。

 

マスターズの選手はこころから競技を楽しんでいることが伝わってくる

 

 

“自分の範囲を知る”

表向きな目標を追う期間には限りがあって、意識下と無意識下で苦しんでいる時間というものはいつか必ず終わります。

今まで自分の身の丈以上で結果を追い続けた選手というのは、“結果と過程”を凝視しすぎていて、それを実際に行っている自分自身を丁寧に観察した経験が少ないです。

自分の身の丈以上の努力を強いられる環境から離れた選手は、今まで外部から得た知識や経験は一度他人だと思って切り離し、新しいキャリアを形成していくことが必要だと考えられます。

 

それは、今まで自分のコントロールできる、意識できる範囲で競技に取り組めていなかったためです。

多くの選手はこういった場面で、“今までは練習をしすぎていたな”と認識することができません。それは長年の経験で限界を超えて練習をしている自分が“普通“となっているためです。

 

自分が“0“になった気持ちで、まずは”5%”でどれくらいの結果が出るのか、“10%“くらいではどうなのか、とかなり低いところから始めるとよいでしょう。

今までの“100%”で出ていた結果が、思いのほか“30%”くらいで出ることも珍しくありません。

そうして、今までの“100%”までやる必要はないかもしれない、

さらに今までの“100%”は自分にとって“120%“だったのかもしれない。と気が付くことができます。

 

自分だけの自分自身を測る“ものさし“というのは、環境を変えると大きく変わります。その”ものさし“を知り、純粋に自分と競技に向き合えるようになることが、第一歩です。

 

練習の量が減っても思ったよりも競技力は落ちないどころか上がることもある。

 

“ものさしと限界値”

“120%”の頑張りで出た結果が、実は“30%”くらいの量・質・努力で出すことができた…

そう思うと、これからの自分の伸びしろにワクワクしてきます。

あと何を足してみようか?どんな練習に新たに取り組んでみようか?

希望が自分のつま先をランニングシューズへと向かわせます。

“120%”の練習をしているとき、自分に厳しくしなければ結果は出ないと考えていた時、

明日の練習が達成できるか不安になります…

心身の疲労で練習に行きたくないという気持ちになります…

早くこの苦しみから解放されたい…

というネガティブな気持ちが断続的襲ってきます。むしろ疲労困憊である日々では毎日練習を休みたいと思うでしょう。

 

しかし自分の考える許容範囲“30%”の量・質・努力では、毎日練習が楽しみです。休みの日も走りに行きたくてうずうずします。

こんな時私たちは“努力”を“努力”として認識していません。他者がその人を見たときに“努力”と評価するところも、自分にとってみればただの“楽しみ”でしかありません。こうした“こころ”の状態で競技をすることは、長く継続したトレーニングを可能にして競技力をグングンと伸ばしていきます。

 

しかしここに落とし穴があることも事実です。

自分が“30%”と自分の“ものさし“で評価していたトレーニングも、

こころの中では、“30%”

肉体的には、“80%”

ということも少なくありません。

精神的にも肉体的にも、どちらもまだまだ限界を超えていない分、“まだまだやれる”という気持ちは強くなります。しかし実際には心の限界と肉体の限界は一致しないことがよく起こります。

 

練習とは自分の体に負荷を与えるものです。自分の行うスポーツが好きになってくると、スポーツをもっと楽しみたくなります。この楽しむ行動が、体への負荷になります。

過負荷になれば壊れますが、過負荷を普通と認識していた場合、簡単に限界を超えてしまいます。

今まで、“120%”の練習をしていた選手は、自分の限界をだますことが得意です。

 

そのため、今まで“30%”だったから“60%”くらいまで挑戦したらもっと競技力が上がると思い背伸びをしすぎると、肉体の許容範囲を超える“110%”になり、故障してしまったり、疲労が溜まってパフォーマンスが落ちてしまったりします。

こころのものさしの許容範囲を拡張できた場合、常に肉体のものさしに敏感にならなければなりません。

時に②の傾向の選手は、競技に熱中するあまりに自分の“こころのものさし”が拡張されすぎてしまい、“肉体のものさし”にギャップができてしまうことがあります。

二つのものさしのメモリを適切に読んで、自分の範囲内で上手にコントロールできるようになると“キャリアの継続と成長”を実現できるでしょう。

 

自分自身の走りを黙々と楽しむもよし。 誰かとの競り合いを楽しむもよし。 すべての走りに体だけでなく、心が躍動する瞬間があるはず。

 

“ゴールとは”

実際の自分のゴールとは何だったのか?

高校の時は割と結果は出ていましたが、“故障や疲労骨折は走って、その部位の骨・筋肉を強化して治す”というような考え方だったので、自分の本来目指すべきスポーツの姿ではなかったように思います。

また合宿というものは行きたくないもので、合宿地ではチーム内のほとんどの選手が脚を引きずりながら走り、監督が怒鳴る、という学校だったことは非常に有名な話…

大学の時のモットーは、とにかく誰よりも走る。その結果、朝のJOG、午後のJOG、ポイント練習のアップで足を踏み出すたびに沼の中に入っていくような重さで止まりたい気持ちになることもしばしば…

 

日本でいうところの市民ランナーになって、通勤ランを始めると本当の意味で、自分の意志と脚で地面をとらえて前に進んでいる高揚感がありました。

初めて感じた“自由に走れる喜び”は高校や大学の時に“故障明け”で、痛くない脚で走れる安心感とは大きく異なるものでした。この“安心感”と“喜び”の違いは両方を経験したことのある人ならば必ず理解できることだと思います。

 

この日々がおそらく私にとっての新しいキャリアのスタートとなりましたが、

何もないところから始めた新しいキャリアでのゴールとは何なのか?

そうしたゴールのない競技生活の向かう先のヒントとなった話を紹介します。

 

ニュージーランド中距離界のレジェンド、ジョン・ウォーカーは40歳近くになるまで18年間毎年1マイル4分切りという世界記録を持っていましたが、ニック・ウィリスが今年19年連続を達成し、2022年1月1日には20年連続に挑戦します。

Nick Willis breaks John Walker's world record with 19 years of 4 minute miles | Stuff.co.nz

Midnight Mile Gala | Tracksmith

 

世界のトップレベルを長期間にわたって継続していることは、一つのゴールに縛られない”こころ”で競技に取り組んでいるからだと思います。

 

1マイル・サブ4程の実力ともなれば、その動向に注目が集まりますが、自分自身の走った”結果”というのは実は自分が思ったよりも周囲・世間は気にしていないと思います。歴史に名前を刻めなくても、目標とした大会に出られなくても、プチ自慢が減っても、自分自身の走りの失敗で何かこの先の人生の中で困るようなこともほとんどないでしょう。

世界からみられる自分の走りは、ほとんど世界に何の影響も及ぼしません。 そうであれば失敗も成功もあまり深く考えずに、今一瞬の走りを楽しむことが一番なのではないかと思います。

 

 

競技力は関係なく、

すべてのランニングを楽しむランナーにとって、

夢や目標というゴールはなくても、

毎日走って躍動感を感じられること、

それは常にスタートでありゴールなのかもしれません。

 

今回の記事で、何か皆さんのランニング生活のプラスになる発見がありましたらうれしく思います。