今夜は仲秋の名月です。といっても現在の時刻(20:36)では月齢14.4なので十五夜になるのは明日でしょうか。よく晴れているのと気温も下がってきて観月にもってこいの今宵となりました。それでも夏のほてりは今夜も残っていそうです。
仲秋の名月を読んだ俳句というとやはり松尾芭蕉のこの一句です。
名月や 池を巡りて よもすがら
池に映る名月を夜通し見ていたら、時間が経つのも忘れてしまった。いつの間にか夜明け近くに。現代語訳をしていまうと何とも味気ないことでしょう。
この一句を詠んだのは貞享3年、1686年の8月15日でした。旧暦ですから、今の太陽暦にすれば、ちょうど今頃のことです。
芭蕉は俳句を芸術のレベルに高めた、庶民の遊びを文学にしたと言われています。俳諧の誕生です。
芭蕉は三重県の伊賀市の出身で藤堂藩に仕えていました。戦国大名の藤堂高虎を祖とする藩で、高虎は家康の側近でした。家康の墓には傍に高虎が眠っています。当時江戸は上水道の整備が急がれていました。神田上水などは関東大震災まで使われていたほどで、芭蕉は江戸の飲み水を整備するというかってない最大のインフラを仕切った人です。その功績は、蕉門俳句を大成した功績よりも歴史的には評価されていいと思います。
現代風に言えば、大手ゼネコンをの元締めのような存在でした。それは表の顔で裏の顔は俳諧師です。いつしか芭蕉の表の顔は忘れられて、俳諧師の顔だけが残りました。
さて、貞享三年と言えば、松本藩今の長野県で貞享騒動が起こりました。米の不作で農民達が決起しました。折しも今年は令和の米騒動。店頭から米がなくなりました。
実は、これ、芭蕉が生きた時代は太陽活動が低調で小さな氷河期でした。冷夏が重なり、米はとれなくなりました。芭蕉は江戸から故郷の伊賀に帰る様子を「野ざらし紀行」描いています。何が野ざらしになっているのか。飢餓で亡くなった人は亡骸です。当時地球はマウンだミニマムという氷河期が訪れ、多くの人が亡くなりました。
今宵、私たちはやや蒸し暑い夜に名月を見ています。芭蕉が見たこの年の名月は、私たちが経験したことのないような涼しさ、あるいは寒ささえ感じた一夜だったかもしれません。
そうすると、この芭蕉の一句はどのように読めるでしょうか。寒々とした名月を一晩中愛でている。いかにも芭蕉らしい感じがしてきました。ひたすら無心に名月の美しさに耽っているのでしょう。
彼の生涯はその生誕から生涯を閉じるまで寒々とした気候でした。太陽活動の低調な時期マウンダーミニマム、その気温の寒さは彼の文学、作品に影を落としているはずです。芭蕉の侘び寂びの世界は、太陽活動の低調というマウンダーミニマムから生まれた境地なのかも。
それは地球温暖化、そして、やがて起こる地球の熱暴走に向かっている現代を生きる私たちとは一風変わった月の見え方であるはずです。
今夜の名月は何も語りません。ひたすら沈黙を貫いています。その沈黙の中に私たちは何を読み取るのか。月を見ながら考えてみたいと思います。