春雨のプラモデルは田宮から出ています。これは昭和期の物で本艦とは関係ありません。
三重県鳥羽市相差に駆逐艦春雨の遭難碑があります。この船は明治36年に横須賀で竣工しました。明治37年日露戦争が起こり、日本海海戦では第一艦隊第一駆逐隊司令艦として参加しました。
明治44年11月24日、本船は鳥羽市的矢湾の菅崎沖で嵐に遭います。安乗崎灯台の灯りを見つけ港に向かいましたが、すでに船を操舵することは無理な状況でした。船は座礁し、船体は次第に沈み始めます。最後には乗組員全員が海に放り出されました。生存者は20名で、殉職者は44名。
この時、相差の人々が救助に出ました。 人々は命綱一本を頼りに海に飛び込んだと言います。艦長児玉大尉は救助を拒み、「天皇陛下万歳」と叫んで春雨と運命を共にしました。士官達もそれに倣いました。
安乗埼灯台をバックに「喜びも悲しみ幾年月」映画シーン
昭和12年に事故現場を見渡せる菅崎に碑が建てられました。今は展望台に鐘が設置されていて公園になっています。対岸は安乗崎で、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台になりました。
岬にはいつも風が吹いています。波間には鋭い岩礁がここかしこに出ていて、今も風が強ければ操舵を誤り、危険極まりない海域だと分かります。それでも漁師さん達はすいすいと岩礁を通り抜け、海の幸を漁っています。相差漁港の海産物の豊かさと危険は紙一重だと気づきました。
現在の相差港 左側が菅崎です。急な坂を上り、記念碑まで車で行けます。歩いても30分程度
ここは明治期、東洋の一番東にある島国日本が外国に向かって国力を誇示しようと懸命になっていた時代です。近代国家として生まれたばかりの青年日本です。そして、その悲話は志摩の海の波間に耳を澄ませば聞こえています。この悲話を忘れてはいけないと思いました。命綱一本を頼りに海に飛び込んだ相差の漁師さんたちや海女さんたち、その血脈は百年経っても繋がれています。
相差には独特の風土を感じられます。相差にあるどのお宿もあれほど豊かな海鮮をなぜ振る舞えるのか。志摩の海の豊かさとともに、それを提供する人々の優しさのようなものを感じました。それはここに来て見て触れなければ理解できないものなのかも知れません。


